倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
急行「大和」について
東京〜和歌山方面の夜行列車・和歌山直通車・編成



倶楽部メモ(289) 平成17年 9月 7日〜 9月13日

投稿者 400系なすの
投稿日 9月11日(日)01時04分37秒
タイトル 夜行急行について
こんにちは。
早速ですが、ある日母が東京〜和歌山方面を結ぶ夜行急行を僕のNゲージの線路に走らせてほしいいってきました。
理由を聞くと、どうやら母は幼いころに和歌山に住んでいたらしく、そこから実家のある栃木に行く際、
母が中学生のころ亡くした母の母、つまり私から見れば祖母と一緒に乗った思い出の急行みたいです。
普段母に反抗してばかりいる親不孝者の僕ですが、さすがにこれはかなえてやりたいと思いましたが
なかなか資料が手に入らなくまた、手に入ったとしても編成などの詳細が書いてなくなかなか情報が手に入りません。
母によると急行那智らしいのですが本当にそうなのかわかりません。
ただ、王寺という駅は通ったそうです。ご存知の方是非教えてください。

投稿者 青列車
投稿日 9月11日(日)02時24分12秒
タイトル 【夜行急行】大和でしょうか?
お邪魔しますm(_ _)m
>>400系なすの様
お尋ねの列車ですが王寺駅ということは関西線経由の列車ですよね。
お話から察しますと急行「大和」あたりかと推測します。
ただこの列車、時代によって単独運転したり併結運転があったりですので、
ご母堂がご乗車になった年代がいつ頃なのか?(例えば昭和30年代なのか40年代なのか?)
によって編成が変わってくると思います。
30年代前半でしたら基本的にぶどう色ですし、40年代になると青塗り主体の編成になるはずです。
カマは東海道線上はまずEF58で間違いないでしょうが、関西線内はC57だったかDD51だったか?
これもたぶん昭和40年頃が境目になりそうです。
生憎小生も只今引っ越し準備中で、資料となりそうな文献は只今箱詰めしてしまい、確認が取れませんが、
昭和40年代の鉄道ジャーナルに、紀伊半島方面からの東京行き多層建て急行列車の「列車追跡シリーズ」がありますので、
もし首都圏在住で日曜日お時間が取れるようでしたら、交通博物館の図書室のご利用をお奨めします。
当該雑誌のバックナンバーの閲覧ができます。

投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 9月11日(日)05時21分14秒
タイトル 和歌山行き急行
たしか昭和43年頃ならば湊町行きに併結されていました。
この頃の時刻表が家のどこかにタイムカプセル状態なのですが。
曖昧ですが和歌山行きは寝台車が1、2両で奈良から他の座席車と連結して和歌山に行きました。
おそらく10系寝台車だと思います。
母上様の記憶も大事です。色、SLだったか寝台車だったかとか。
ちなみにうちの親父(他界)は素人?だけど結構覚えていて参考になりました。
おふくろさん大事にしてください。

投稿者 C58221
投稿日 9月11日(日)15時08分7秒
タイトル 急行大和
こんにちは。
その列車については下記URL広瀬和彦さんの「思い出の箱」というホームページの中の、
「幼き頃」というページにかなり詳しく書いておられます。
和歌山線の鈍行に併結されて行くハネの写真とともに、和歌山までの時刻表まで添えられています。
http://www.geocities.jp/okazu1945/
投稿者のホームページ

投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(日)20時12分47秒
タイトル 急行「大和」の和歌山直通車
>400系なすの様、皆様
 「東京〜和歌山方面を結ぶ夜行急行」は、皆様が言われるように、東京−湊町間の急行「大和」の2等寝台車1両を、
王寺から和歌山線普通列車に継送したものでした。
昭和37(1962)年3月10日に登場し、昭和43(1968)年10月1日の白紙ダイヤ改正、いわゆるヨンサントオ改正で廃止されました。
和歌山線内はあくまで「和歌山線普通列車」であり、その一部の車両が急行「大和」に直通する、という扱いでした。
 急行「大和」の編成は、時期によっては本HPのリンク先「ARC資料館」に掲載されています。
それ以上の情報をご所望でしたら、私も若干資料の手持ちがありますので、おっしゃって下さい。
 和歌山線普通列車の方は、資料が少なくなかなか難しいかもしれません。
たしか、昭和40年あたりの天王寺鉄道管理局の客車運用表が、交博図書室にあったと思いますが…。

(以下勝手にうんちく)
 和歌山直通寝台車の初代使用車両は、改造落成したてのピカピカのスハネフ30でした。
当時それ以外に「ハネフ」という車種は、約1ヶ月後に登場する「九州観光号」のナハネフ11 600番台しか存在せず、
わずか3両の小世帯であるスハネフ30という形式は、まさにこの「大和」の和歌山直通車のために登場したように見受けられます。
 その後間もなくナハネフ10が登場すると、和歌山直通車はそれに置き換えられました。
関西本線の難所・加太越えに挑むC57の負担を、少しでも軽減するためだったのでしょう。
スハネフ30は、東京−大阪間の東海道夜行急行に転用されたようです。
全線電化の東海道線では、バリバリ全盛時代のEF58がガンガンに牽きまくって(笑)いましたし、
スハネ30もたくさん使われていましたから、スハネフが入ってきても痛くも痒くもなかったと思われます。
 その後昭和42年頃(?)には2等寝台車の冷房化が推進され、和歌山市行きのナハネフ10も、冷房車オハネフ12に化けました。
しかしヨンサントオ白紙改正で、この変則的な直通運転は6年半の短い歴史を閉じたのでした。

 高速道路はまだ存在せず、飛行機は高嶺の花だった昭和30年代、国鉄が長距離の移動を支えていました。
そして、本州・九州のほとんど全ての府県庁所在地には、東京(または上野・新宿)から直通列車が走っていました。
ところがその中で、唯一の「穴」が和歌山だったのです。
涙ぐましい変則運転の蔭には、「おらが町から東京行き列車を」という地元の情熱があったに違いありません。
鉄道ピクトリアル第659号(1998-10<特集>寝台車と設備)所載「思い出の寝台列車」(寺本光照氏筆)では、
この列車についても言及されるとともに、運転初日の和歌山市駅で、
おそらく華やかな出発式を行ったと思われる大勢の人垣に見送られ、
スハネフ30をしんがりに発車してゆく一番列車の写真が掲載されています(P.52)。

投稿者 クモイ103
投稿日 9月11日(日)22時44分53秒
タイトル 訂正:もう一つありました
 前書き込みで、本州・九州府県庁所在地のうち
唯一東京(上野・新宿)直通列車のなかったのが和歌山と書きましたが、山口もそうでした!
たいへん失礼いたしましたm(_ _)m。

投稿者 青列車
投稿日 9月11日(日)23時06分18秒
タイトル 直通列車
>>クモイ103さま
その件でしたらお気になさらずとも大丈夫です。当の山口県出身者も気がつきませんでしたので(爆)。
あ?山陽線の四辻駅と嘉川駅は山口市内にあるんだった!
特急も急行も定期列車で停まるものは当時も今もありませんが、その昔、東京〜門司間の直通普通列車がありましたから、
その時には一応、山口市の駅に停まる東京直通列車は存在したことになりますね(こじつけもいいところ)(^^);
今は何故か旧小郡駅は新山口駅になってしまいましたが、まだ行政区分は吉敷郡小郡町のはずです。
あの界隈は古くから地方自治体同士でくっつくのくっつかないので喧喧諤諤
そのため人口10万に満たない程度の市が連続する形になってしまいました。
最近になって周南市(旧徳山市・新南陽市・熊毛郡の一部の合併)や山陽小野田市などというものができてきましたが…
ということで横レス失礼致しましたm(_ _)m

投稿者 太田拓也
投稿日 9月13日(火)08時23分34秒
タイトル 「大和」について
「大和」が話題になっていますが・・・

手元にある昭和42年10月号で調べたところ、新幹線の始発から南海電鉄に乗り換えたほうが和歌山市に早く着きます。
地元のメンツ重視の設定だったようですね。近くに関空ができた今ならその必要もないでしょうが。

>山口県
「茨城県をかすめる東北新幹線」「"静岡市内"にターミナルがある大井川鉄道」と同レベルのオチですね。
投稿者のホームページ

倶楽部メモ(295) 平成17年10月18日〜10月31日

投稿者 400系なすの
投稿日 10月30日(日)19時15分35秒
タイトル ありがとうございました
返事が送れて申し訳ありません。
皆様の情報のおかげで、母が乗っていた急行列車は大和とわかりました。
なかなか模型で客車が売ってなく、また客車の編成についての資料はなかなか手に入らなく、
また入ったとしても不明な点が多く、なかなか大和が再現できないのが現状です。
またまた質問ですみませんがご存知の方情報、お願いします。
年代は昭和35〜40年ごろでカマは、東海道区間はEF58でその先の区間はSL(多分C58)とわかっております

投稿者 クモイ103
投稿日 10月30日(日)21時43分37秒
タイトル 「大和」の編成
>400系なすの様
 急行「大和」の和歌山市行き寝台車連結は、9月にもお話ししたように昭和37年3月からですが、
 列車の編成は短い間にけっこう変化があったようです。手持ちの資料から抜粋します。

◆S.37.10.1改正(名古屋鉄道管理局 客車運用表より)
 和歌山市行き寝台車の連結開始から約半年後の37-10ダイヤ改正時の資料です。
203-204レ「大和」
 マニ
1マロネ41
2スハネ30
3スハネ30
4スロ53
5スハ
6スハネフ30
7スハフ
8スハ
9オロネ10
10スロ53
11ナハネ10
12スハ
13スハ
14スハフ

 下り方先頭のマニから5号車スハまでは東京−名古屋間のみ連結です。
 マニの運用番は「天荷1」で竜華の受け持ち、1〜5号車は「名附2」で名古屋の受け持ちです。
 6号車スハネフが王寺から和歌山線に入る和歌山市行きで、運用番は「東附7」、受け持ちは品川です。
 7〜14号車がこの列車の“本体”である湊町行きで、
 運用番の「天1」が天王寺鉄道管理局の看板列車であることを示しています。
 受け持ちは竜華です。
 なお、昭和39年3月末時点では、和歌山市行き寝台車「東附7」はナハネフ10に置き換わっています
(国鉄営業局資料「旅客車の現状」より)。

◆S.39.10.1改正(主要客車列車編成順序表より)
 東海道新幹線開業に伴う大改正で、「大和」は鳥羽行き急行「伊勢」と亀山まで併結になります。
 「大和」編成はオール寝台車となりました。
203レ「大和・伊勢」
 マニ
1マロネ41
2スハネ30
3スハフ
4スロ54
5オハネ17
6オハネ17
7スハ
8スハフ
9ナハネフ10
10ナハネフ10
11オロネ10
12オハネ17
13オハネ17
14ナハネフ10

 マニから2号車までが東京−名古屋間のみ連結、マニは「天荷3」、1〜2号車は「名附2」です。
 3〜8号車は鳥羽行き「伊勢」で運用番は「天2」、受け持ちはおそらく伊勢市と思われます。
 9号車が和歌山市行き「東附4」、10〜14号車が湊町行き「天1」です。
 牽引機は、東京−名古屋間EF58、名古屋−湊町・鳥羽間C57、
 和歌山線内については普通列車としての編成も含め不明です。

◆S.40.10.1改正(主要客車列車編成順序表より)
 併結相手が急行「能登」(東京−金沢間・米原経由)に交代し、編成もがらりと様変わりします。
 ただ、この時から関西本線内の牽引機がDF50となりますので、お母様のご記憶とは違ってきますね。
901レ・901〜2901レ「能登・大和」
1ナハネフ10
2オロネ10
3オロ61
4スハネ30
5スハネ30
6スハ
7スハ
8スハフ
9ナハネフ10
10ナハネフ10
11オロネ10
12オハネ11(オハネ17の誤記か?)
13オハ
14スハフ

 名古屋回転車は無くなり、1〜8号車が「能登」で「東4」、9号車が和歌山市行き「東附4」、
 10〜14号車が湊町行き「天1」です。
 関西本線内の牽引機は前述の様にDF50ですが、和歌山線内についてはわかりません。
 なお、この状況はS.42.10.1改正時も同じです。12号車はオハネ17です。

 余談ですが、当時の和歌山付近は現在と路線形態が異なっていました。
 現在の和歌山線は田井ノ瀬の先で左折して和歌山駅(旧・東和歌山駅)に入っていますが、
 当時は直進して阪和線の紀伊中ノ島駅をアンダークロスし、旧・和歌山駅(現在の紀和駅)に至り、
 そのまま和歌山市駅までまっすぐ通じていました。
 現在の田井ノ瀬−和歌山間の曲線路は当時も存在しましたが、
 紀勢本線へ直通する一部の列車だけが通る「短絡線」扱いでした。
 「大和」は名古屋で進行方向が逆転しますが、和歌山市行きはさらに王寺でもスイッチバックとなり、
 和歌山市到着時は東京発車時と同じ向きに戻っていたことになりますね。

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