倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
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関釜航路・鉄道連絡船と客車航送



倶楽部メモ(227) 平成16年 2月29日〜 3月 2日

投稿者 クモイ103
投稿日 3月 1日(月)22時37分13秒
タイトル オイテと急行7レ、関釜航路のことなど

>門タケ様
 オイテ27000のその後について、ご教示ありがとうございます。
やはり最後の2両はその後も残り、戦時格下げの時期まで存在したのですね。
 戦時格下げといえば、鋼製展望車にもその計画があり、スハ38、スハ39と番号も用意されていたのが実現しなかったという話で、
幻の形式がここにもありました。

>マロネロ38様
 テールマーク無しの展望車ですか。
 なるほど列車愛称名が無いのですから当然ですが、改めて言われると、おおそうか、と思いました。
 関釜航路で接続する夜行7−8便は、昭和16年前後なら、戦前における国鉄連絡船の最高傑作、
金剛丸・興安丸の姉妹船が活躍した頃ですね。
 交通博物館の2階に金剛丸の模型があるので、急行7レが到着する下関駅と桟橋の様子を想像してみることにします。

 さて余談ですが、列車と接続の船便に同一の番号を振ることは、他の国鉄航路でも行われていましたね。
 私の世代では、1M「はつかり」→青函1便→1D「おおぞら」が有名でした。
 これに日本海縦貫線から2001D「白鳥」が合流し、上野と大阪から釧路を結ぶ雄大なスケールの輸送体系に、
子供心に感動しながら時刻表を読みふけったものでした。


投稿者 今泉
投稿日 3月 1日(月)23時44分30秒
タイトル 7レなど

久しぶりに書き込みいたします。
7レの写真が「ライカ写真集V(?)」に出ていたように思います
(著者が思い出せない...今手元になくて書名も確認できないのですが...)。
7レが貨物を抜く場面などがありました。

>クモイ103様
余談に反応してしまいますが(^^;)、学生の頃、2D→2便→2Mの乗り継ぎを釧路→上野でやったことがあります。
24時間近くかかったような記憶があります。2Dはキハ82系、2Mは485系でした。


投稿者 EF5841
投稿日 3月 2日(火)09時54分58秒
タイトル >1レ
確か、九州線区内の鹿児島行急行も 1列車 で列車番号の統一を図っていたような気がします?

倶楽部メモ(228) 平成16年 3月 2日〜 3月 5日

投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 3日(水)10時33分31秒
タイトル 関釜連絡船と列車番号
金剛丸は生き残りましたが、朝鮮戦争の米軍輸送に狩り出され、台風で座礁委付、
興安丸は神戸港、徳寿丸は下関港で写してあります。
景福丸は函館で「フローテイングホテル」になっていましたね。やられたのが「天山、崑崙」丸等の最新造船だったとは皮肉な物です。
列車名で繋がっていたのは東京ー宇野間の「瀬戸」で連絡船で高松に着くと、宇和島行き準急「瀬戸」が待っていました。

投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 3日(水)20時59分8秒
タイトル EF5841様 へ
1レ「富士」は101レ長崎港行き急行ではなかったですか?関門連絡船は1便でしたが---
鹿児島行き急行は3レ「桜」に連絡船3便ー鹿児島行急行3レで連絡。
7レも連絡船7便―鹿児島行き急行(夜行)7レ連絡でした。
「富士」には更に長崎港から上海行きN.Y.K.ライン(後の東亜海運)に連絡する使命もあったから
長崎港行き急行(出帆日のみ長崎から延長運転)連絡になっていたはずです。
N.Y.K.の乗船券と長崎‐神戸間は「プール」になっていて、船でも列車でもどちらでも乗れたそうです。
戦争まじかには長崎ー神戸間が運航休止され、列車か、神戸‐上海直行の「大洋丸」(よく揺れるので悪名高かった)利用になったそうです。
「プール乗車船」の事は、一度利用した父から聞きました。

投稿者 クモイ103
投稿日 3月 3日(水)22時22分12秒
タイトル 船ネタですみませんが

>マロネロ38様
 興安丸、徳寿丸を撮影されたのですか。一度写真を拝見したいものです。

 鉄道連絡船の歴史については、以前気合いを入れて文献を漁ったことがあり、
座学に過ぎませんが、関釜連絡船のその後についても興味を持っております。
 戦火をくぐって生き延びながら台風で座礁し解体の憂き目にあった金剛丸、
それをしのぐ大型優秀船として期待されながら実力を発揮しきれず日本海の藻屑と消えた天山丸と崑崙丸、
そして本来の用途よりも戦後の引き揚げ船として有名になった興安丸、
などなど、いずれもそれだけで本が書けそうな激動の物語で、興安丸については本当に本が出ていますね。
徳寿丸は、洞爺丸台風後のピンチランナーとして青函航路に就航した点でも興味深いです。

 連絡船の歴史にはまっていた頃は、単に興味の対象にするだけの立場に一抹の後ろめたさを感じ、
下関の崑崙丸や函館の洞爺丸他の慰霊碑にお参りしたものです。
また今でも、交通博物館に行けば、2階の連絡船コーナーをまず一巡してから4階の図書室に向かいます。
博物館移転の話が出ていますが、連絡船関係の資料は引き継がれるのか心配です。
 景福丸ホテルの存在は、仕事で函館に行く機会の多かった父から聞いています。
今は長崎で大雪丸がホテルになっており、開業後すぐ泊まりに行きました。

 船ちゃんモードですみません。みなさん、連絡船の歴史を紐解くのもまた格別ですよ。


投稿者 こう
投稿日 3月 4日(木)10時28分29秒
タイトル 連絡船と客車
連絡船の存在が客車列車の繁栄をもたらしていた・・こう考えると、こじ付けでしょうか・・
というのは連絡船があるということで必ず、客貨車の入れ替え作業が必要となり、このため世は機関車の春・・ということは客車の時代。。
ちょっと言葉足らずかもと思いますが、鉄道から本来の連絡船が消えたことと、客車列車が消えていくことに何か時代の必然性を感じてしまいます。
私も洞爺丸の本を読みました。鉄道と、船と人生と、考えさせられるものがありました。
投稿者のホームページ

投稿者 EF5841
投稿日 3月 4日(木)11時38分38秒
タイトル >>1レの件
1レの件、厳密な意味での接続を考慮せず、混乱させましたことをお詫びします。
連絡船の話が話題になっていますが、青函及び宇高において、客車の航送が行われていた当時、
寝台利用の状態で航送されたのか、船室へ案内の上航送されたのかご教示いただけると幸いです。

投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 4日(木)11時52分18秒
タイトル 鉄道連絡船
本HPの主旨に外れますので、管理人サンの許可があればネガを探して見ませう。
青函、宇高はそのまま航送だったと存じます(但しトイレ使用禁止=宇高)
青函は時間が長いからあるいは船室に入れたかも知れません。

投稿者 クモイ103
投稿日 3月 4日(木)21時12分45秒
タイトル 連絡船と客車航送

 昭和39年に登場した青函連絡船津軽丸(2代目)でも、
当時のピクトリアル誌によると、若干の改造で客車航送が出来るように車両甲板が設計されていたとのことです。
一度そういうのに乗ってみたかったですね。

>マロネロ38様
 連絡船の写真の件、おっしゃる通りここは客車の掲示板ですので、無理にとは申しません。単なる極私的興味ですので・・・


投稿者 仙コリ(管理人)  
投稿日 3月 4日(木)22時40分31秒
タイトル 鉄道連絡船と客車航送

鉄道連絡船の話題で盛り上がっていますね。
私自身残念ながら鉄道連絡船には乗らずじまいだったのですが、その昔は特に青函連絡船などはぜひ乗ってみたいと思っていたものでした。
さて、鉄道連絡船の話題や写真の話などが当HPの主旨に外れるのではという話にもなっていますが、
確かに一般の客船の話などはご遠慮いただきたい面もありますが、
皆様の書き込みの通り一昔前までは鉄道連絡船は鉄道輸送の重要な一翼を担っており、
客車航送という客車趣味とも切っても切れない関係もありましたので、遠慮なくお話して頂いてかまわないと考えております。

PS.私事ながら数日前に目に怪我をしてしまい、ここ数日パソコンに向えない日があったため反応が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
   おかげさまで怪我は快方に向かっているので、また皆様と楽しいお話ができればと思いますのでよろしくお願いします。


投稿者 青列車
投稿日 3月 5日(金)00時45分23秒
タイトル 【連絡船】客車航送は…

今晩は(^o^)/EF5841さん
お話の連絡線の客車航送ですが、やはり客車に乗客を乗せたまま行われていたようです。
しかし、洞爺丸や紫雲丸の悲劇に鑑み、万が一の際、車輌甲板の客車からだとに乗客を避難させることが難しく危険なので、
乗せたままの航送は中止されたと聞いております。
(洞爺丸と運命を共にしてしまったマイネフ38-5が乗客を乗せていたかどうかは存じませんが)

東北線系統の夜行客車急行から連絡船乗り継いで北海道!体験したかった…(;_;)
21世紀になってやっと、はくつる−海峡リレーで北海道!でも、旅程途中で会社に呼び出され急遽戻る羽目に…
(交代のアルバイト君のご親戚のご不幸で彼を休ませなくてはならなくなった)
一番乗ってみたかった50系5000番台とうとう乗れませんでした…(往きは14系でした)


投稿者 こう
投稿日 3月 5日(金)09時13分28秒
タイトル 連絡船大好きでした。
僕は北海道も四国も連絡船が大好きでした。
白鳥から北海へ・・鷲羽からうわじまへ・・何度乗ったか覚えていないほどです。
青函の食堂やグリーン、桝席、宇高の讃岐うどんが今も大切な思い出になっています。
特に四国へ行くと、高松でたくさんの旧型客車や気動車が迎えてくれたのが昨日のようです。
高松のスハフ43は見るばかりで一度、乗っておくべきだったと悔やんでいます。
仙コリさま・・お怪我はいかがですか?ご回復をお祈りいたします。
投稿者のホームページ

投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 5日(金)14時29分5秒
タイトル 管理人様御大事に
お怪我ですか―――御大事になさってください。
私も先週胸の皮膚と肋骨の間に脂肪の塊が出来て、外来手術をし昨日糸を抜いた所です。
おかしな物ではないと言われてなんとか一安心です。
客車航送は結局「洞爺丸.紫雲丸事故」で廃止されてしまいましたが、宇高などは「夜行」でしたから余計危険が多かったからでしょう。
確か土讃線がスロハ32で、予算本線がスロハ31(W)で土讃の方が車が良かったですね。

倶楽部メモ(229) 平成16年 3月 5日〜 3月10日

投稿者 秋田県秋田市、細田 喜仁、26歳
投稿日 3月 6日(土)06時42分7秒
タイトル クモイ103様、
青函連絡船二代目津軽丸型の車輌甲板が改造で「客車航送」に対応可能な設計であった事は初めて知りました、
ありがとうございます(ちなみに、鉄道ピクトリアル誌の何号ですか?)。
私も鉄道連絡船好きでもありまして、現在、たまたま「森下研著、興安丸」を図書館から借り、読んでいたところでした。
私は主に青函連絡船洞爺丸型末期(重油焚き、後部水密扉、舷窓水密丸窓、改造後)について研究致しております。

投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 6日(土)12時05分1秒
タイトル クモイ103様
管理人様から承諾がありましたので、「徳寿丸」、「興安丸」を一両日中に管理人様に送りますが、
古い写真なので状態が良くありませんので、その辺りご諒解下さい。

投稿者 クモイ103
投稿日 3月 6日(土)20時31分52秒
タイトル 津軽丸の航送設備のことなど

>仙コリ(管理人)様
 遅ればせながら、お怪我が大事に至らず何よりでした。また、鉄道連絡船についての話題を承認していただきありがとうございます。

>細田 喜仁 様
 該当のピクトリアル誌は、第158号(1964年6月号)です。巻頭の記事「青凾連絡船津軽丸竣工」(石黒隆氏筆)に、
「2番線3番線にはボギー客車9両を積載でき,若干の改造を行なうことによって,寝台車航送も行なえるように考慮している.」
と述べられています。
 余談ですが、この号の表紙は「根岸線をゆく」、桜木町−磯子間の開業に備えて試運転する73系電車です。
また、当時1ページしかなかったカラーグラフに「津軽丸試航」、
そして目次の脇の「今月の話題」は「新幹線大阪地区で初の長距離試運転」と、
試運転づくしになっている事が、いかにも、未来がバラ色に輝いていた時代を偲ばせます。

>マロネロ38様
 感謝に堪えませんm(_ _)m。

 父が船員だったもので、連絡船は鉄道との接点でもあり、その点でも興味がありました。
 細田様は船の構造や性能に深く関心をお持ちなのでしょうか。
私はどちらかと言えば、運航ダイヤや配船運用、船のたどった経歴、航路史といったものがメインです。
「日本国有鉄道百年史」の航路関係のところだけ、山のようにコピーを持っていたりします(^^ゞ。


投稿者 マロネロ38
投稿日 3月 7日(日)09時18分43秒
タイトル 控車+9600、摩周丸
昭和27年に北海道からの帰途「摩周丸」(初代)のボートデッキから、9600が控車を摩周丸に押し込んでいる場面を写してあります。
航送の過程が良く解かるので、ネガが見つかれば、管理人サンに送っておきます。

投稿者 秋田県秋田市、細田 喜仁、26歳
投稿日 3月 8日(月)09時44分15秒
タイトル クモイ103様、
鉄道ピクトリアル誌158号ですね、ありがとうございます。
各鉄道連絡船の中でも私が一番興味を持っているのはやはり、青函連絡船ですね。
本州と北海道を結ぶ大動脈として、鉄道と鉄道の接点として鉄道車輌航送用設備を持ち、
津軽海峡という場所柄外洋船舶並の航海性能を備え、各時代最先端の技術水準で船が作られましたからね。
また、この航路の歴史の中で特徴あるのが、輸送能力が出来るだけ低下しないように、
緊急時には他航路から鉄道車輌航送用設備が無い船でも応援に来ていた事ですね。
鉄道連絡船の各型の船1隻ずつ、海上ホテルなり、博物館として残っておれば・・・とかなわぬ事を想っている今日この頃です。

投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 3月10日(水)20時36分42秒
タイトル 「客車列車写真館」更新いたしました
遅くなりましたが、今月の客車列車写真館の更新といたしまして、
番外編?ではありますが先日こちらで話題になりました鉄道連絡船の特集を組んでみました。
今回もマロネロ38様の提供による貴重な写真を掲載させていただきました。
話題に参加された皆様にとって、とても参考になる写真ではないかと思います。

投稿者 クモイ103
投稿日 3月10日(水)23時55分15秒
タイトル ありがとうございます

 元関釜連絡船、徳寿丸・興安丸の写真、私の勝手なお願いで客車のHPにもかかわらずUPして頂き、感謝感激です。
マロネロ38様、仙コリ(管理人)様、ありがとうございます。

 改めて画像で見ると、興安丸のファンネルマークが、流転の経歴を物語っていますね。
戦後すぐに国鉄の手を離れ、「引き揚げ船」として名を馳せた後、最後に巡礼船(でしたっけ?)となって外洋を渡っていた頃には、
おそらく日本の多くの鉄道ファンから忘れ去られた存在だったのではないでしょうか(今は津軽丸がそういう状態?)。
昭和45年、廃船・解体となった時には、TVで特番が組まれたと聞きます。
戦後の日本人にとって「引き揚げ船・興安丸」は忘れ得ない存在だったのですね。
NHKだったら、川口の「NHKアーカイブス」に行ったら見られるのでしょうか。

 徳寿丸は最後まで国鉄にありました。写真でも「工」のファンネルマークが読めますね。
戦後、空襲で壊滅した青函航路への一時助勤の他、引き揚げ輸送や朝鮮戦争時の米軍輸送にも駆り出されましたが、
何と言っても同船の経歴を深く印象づけるのは、昭和29年、台風で沈没した洞爺丸に代わって、正式に青函航路に転属したことでしょう。
船齢32年の老朽船に突然降って湧いた「現役復帰」で、初代十和田丸が建造されるまでの3年間、よく北の大動脈の役割を果たしました。
最後に「鉄道連絡船」として花道を飾った徳寿丸は、悲劇的なエピソードばかり目立つ末期の関釜連絡船にあって、
結果的に最も堅実な人生(?)を全うした船という気がします。

 またまた船談義で失礼しましたm(_ _)m。


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