>マロネロ38様 「急行7−8レ」をご覧になっていたのですか! 私にとっては全く伝説の列車であり、「レイル」などの断片的な記述を継ぎ合わせて、何とかイメージを作っている状況です。 すでに皆さんが述べておられるように、急行で展望車連結という点は興味深いですが、 昭和9年、室戸台風による瀬田川橋梁上での転覆事故の印象も強烈です。
ところで、オイテ27000は5両あり、スイテ37050になったのは2両でした 。残る3両はその後どうなったのでしょうか。7−8レにはいつまで使われていたのでしょうか?
手持ちの文献を継ぎ合わせ、「オイテ年表」を作ってみますと… ◆大正12年 オイテ28070として5両が東トウに新製配置。 7月1日ダイヤ改正から、従来のステン9020に替わって特急1−2レの東京−神戸間と急行7−8レの京都−下関間に使用。運用は、 ・1日目:東京→1レ→神戸切り落とし→夜間に京都へ回送 ・2日目:前夜に東京を発った7レに京都から連結し下関へ ・3日目:下関→8レ→京都切り落とし→夜間に神戸へ回送 ・4日目:前夜に下関を発った2レに神戸から連結し東京へ すでに皆様が書かれているように、1−2レの運転時間帯が東海道昼行・山陽夜行だったのに対し、 7−8レが逆パターンだったことから、このような運用が出来上がったということです。 4両使用で1両予備、わかりやすいですね。 ◆昭和3年 車両称号規程の改正でオイテ27000と改称。 ◆昭和4年 1−2レを「富士」と命名。 ◆昭和5年 「富士」に鋼製のスイテ37000×3両を新製投入。オイテ27000は予備1両を残して4両が大キトに転属、7−8レ専用となる。 ◆昭和13年 「富士」にスイテ37040(のちのマイテ49)×2両を新製投入、
捻出されたスイテ37000×2両が大キトに転属し7−8レに使用。 ◆昭和14年 捻出されたオイテ27000×2両が鋼体化改造を受けスイテ37050(のちのマイテ58)となり、特急「鴎」に使用。
さて、登場時の事はきちんと書いてあっても、その後は不明点が多いです。 (1)昭和5年、1両だけ「富士」の予備車となったオイテ27000は、いつまで使われ、その後どうなったのでしょうか? (2)急行7−8レのオイテが単独運用となってからは、使用両数は2両になったと思われ、
4両配置ですから予備車が2両あることになります。
この体制でずっと行ったのでしょうか、それとも1両減らしたのでしょうか? (3)昭和13年、「富士」のお下がりで7−8レに回ってきたスイテ37000は2両でした。
予備車が必要な筈ですが、オイテが残ったのでしょうか、それとも東トウから特急用の鋼製展望車を借り入れたのでしょうか?
長くなってすみません。何かご存知でしたらお願いします。m(_ _)m
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