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         今晩は(^o^)/Satokawaさん、千葉県佐倉市在住の青列車と申しますm(..)m 
            あさかぜ牽引機故障のピンチヒッターで、ゴッパ−が「老骨に鞭打って」登板した話は、 
        以前ニフティ鉄道フォーラムでも出ていました。(SYSOP氏の体験談として) 
        すると、広島区に待機していたカマが登板したのでしょうか? 
        (FTRAINでの話では、後続の35レのカマを召し上げたらしいとのことでしたから)(^^); 
        仮にも特急列車ですし、広島にはカマの配置もありましたから、予備機をすぐに調達して、 
        なるべく遅れないように(特急券払い戻しを避ける様に)努めたであろうことは容易に想像できます。 
        しかし、広島発車時点で昼下がりになる37レに使うカマが朝の時点で広島にいたとは… 
        (37レの場合、重連になるのはあくまで回送の都合であり、おそらく列車キロを増やさない為 
        のものと思われます。列車の定数自体、EF58やEF61で単機で楽勝ですから。) 
        ところで、ご発言では31レとなっていますが、山陽線広島〜下関間で定期重連を行っていたのは 
        午後の37レではありませんでしたか? 
        定期重連になったのはたぶん1978年頃以降だったように記憶しています。 
        当初はEF58同士、その後EF58+EF61、晩年はEF61同士の重連でした。 
        (RF誌1982年10月号19ページのお写真のキャプションも37レとありました) 
            学生時代長期休暇で帰省した時、この列車を「撮り鉄」しようと実家から徒歩数分の撮影地に向かった所、 
        大畠トンネルから抜け出て、突堤の上を走ってくる37レはこの日に限ってEF61の単機でした…あじゃじゃ〜(^^); 
        マニ36やマニ61、オユ14、オユ12など引き連れた37レは、駆け出し鉄の目前を走り抜け、 
        漁港の入り口にもなってる小さな川の河口の鉄橋を渡り、R360の左カーブを場内信号機を赤く染め、 
        田舎の家並の向こうに姿を消した数分後、再び視界の遠く、波打ち際の堤防越しに姿を見せ、 
        やがて右カーブで山裾の向こうに消えて行きました。 
        貧乏学生の身には一眼レフカメラなど遠い世界の代物で、年代モノのコンパクトカメラ 
        (レンジファインダーとセレン電池の骨董品)でやっとこさ、真似事するのが関の山でした。 
        (そんな若造が今は大手のDPEミニラボショップで店長なんぞしています)(^^);
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