倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
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急行「安芸」の配置区・区名変更時期


倶楽部メモ(140) 平成14年 5月28日〜 5月31日

投稿者 jnt153Fun
投稿日 5月28日(火)19時17分03秒
タイトル 【質問】急行「安芸」の配置区
本文 こちらには初めて投稿します。
1960〜80年代の東海道本線を中心にモジュール制作や車両配備しているNゲージャーです。
先月の鉄ピク43系特集以来,旧客整備にはまっています。
現在先月号に掲載されていた大垣行夜行421レ整備進行中ですが,
次の整備予定は,10系急行「出雲」「安芸」の2編成。
「出雲」の配置地区は「東シナ→南シナ」と判明しましたが,わらないのが「安芸」。
糸崎付属編成は「広ヒロ」と判明しましたが,基本編成も「広ヒロ」なのか?
それとも20系置き換え後と同様「広セキ」なのか?
資料をお持ちの方ご見識のある方,是非お教えください。
あわせて特定日の「安芸」編成の資料もあれば幸いです。

投稿者 クモイ103
投稿日 5月28日(火)21時19分54秒
タイトル Re:急行「安芸」の配置区
本文  jnt153Funさん、こんにちは。
 急行「安芸」の基本編成は、ずっと広島でした。
昭和33年10月改正以前からそうだったことが、各種資料からわかります。
但し食堂車は、初めて連結された33−10改正から36−10改正までの3年間は、
附属編成扱いで品川持ちでした。
 糸崎編成は、広島ではなく糸崎(岡イト)の受け持ちです。
運用番号が各年代を通じて「岡附1」で変わっていないこと、
また糸崎に「安芸」用と思われる寝台車の配置があったことなどからわかります。
> 糸崎付属編成は「広ヒロ」と判明しました
とのことですが、どのような資料から判断されたのでしょうか?
もし実際の編成記録からであれば、客車列車によくあるイレギュラーだったのではないか
と思いますが・・・
 なお、広島の略号は、昭和30年代半ば(?)から昭和40年代半ば(?)まで「中ヒロ」でした。
「中部支社」の「中」かな?正確な変更時期はわかりません。
詳しい方フォローをお願いしますm(_ _)m。
 特定日の編成記録は、手持ちの鉄道ファン194号(1977年6月号 特集:食堂車)
に載っていましたのでご紹介します。
◆1966年10月8日 下り
EF58 102+マニ32 121+オロネ10 6+オロネ10 24+オハネ17 5+オハ46 601+マシ38 2
+オハネ17 14+ナハネフ10 87+ナハネ11 32+オハネ17 184+ナハネフ10 92
+オハネ 17 17+オハネ17 182+ナハネフ10 29
 後部3両は岡イトで糸崎行き、先頭のマニ32は東シナ、他は中ヒロです。
この時期は2等寝台車(ハネ)の冷房化が始まる直前で、まだ全て非冷房です。
 なお、1両だけ座席車のオハ46が入っていますが、鉄道ピクトリアル355号(1978年12月号)
「国鉄急行列車愛称変遷史[11]」によると、「(昭和)41年9月頃,25・26レ「安芸」の4号車ハネは
指定ハザに変更になり,42年10月改正まで続いた.(P.80後ろから5〜4行目)」とありますので、
変則的ながら、いちおうイレギュラーではなく所定編成だったようです。
◆1969年3月5日 下り
EF58 68+オハネフ12 88+オロネ10 8+オロネ10 24+スハネ16 121+オシ17 5
+スハネ16 55+スハネ16 104+オハネ12 35+オハネ12 34+オハネフ12 89
+スハネ16 160+オハネフ12 48+オハネフ12 14
 後部3両は岡イトで糸崎行き、他は中ヒロです。
最後から2両目のオハネフは、ヨンサントオ改正時の資料によると、スハネ16が所定です。

投稿者 jnr153Fun
投稿日 5月28日(火)22時13分07秒
タイトル あっりがとうございました。
本文 クモイ103さん,こんにちは
早速のRESありがとうございました。
特にヨンサントウ後の特定車番入り編成がサイコー!在籍車両の編成もまさにこちらです。
整備の際の車番設定に是非使わせて頂きます。
糸崎編成「広ヒロ」の資料ですが,普段巡回しているNiftyの方で同じ質問を書き込んだのですが,
こちらはその回答して頂いたものです。
「中ヒロ」の存在は初めて知りました。
確かヨンサントウ前後で「東シナ」→「南シナ」のように改定されたと思いますので,
お教え頂いた69年3月5日編成は「広ヒロ」表記で良いのかなあと思います。

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 5月28日(火)23時38分25秒
タイトル 「中ヒロ」→「広ヒロ」
本文

クモイ103様、jnr153Fun様
「中ヒロ」から「広ヒロ」への変更ですが、正確な変更時期はわからないのですが
昭和45年度(1970年)のようです。
よって、1969年3月5日時点では、まだ「中ヒロ」が正しいと思われます。
ちなみに「中」は「中国支社」、「広」は「広島鉄道管理局」の略であるはずです。

この他にも略号の変更はかなりの例がありますが、正確な変更時期がわかりません。
どなたか詳しい事情をお知りの方はいらっしゃらないでしょうか?


投稿者 jnr153Fun
投稿日 5月29日(水)15時54分17秒
タイトル 区名変更時期について
本文 クモイ103様,車掌@仙コリ様,こんにちは
 区名変更時期ですが,手元の資料(鉄ファン20系特集)では,
「東シナ」(〜69年2月28日)→「南シナ」(69年3月1日〜)となっています。
ただ,この区名変更時期が,果たして全国一斉なのかどうかは,私もわかりません。

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 5月29日(水)19時08分42秒
タイトル RE:区名変更時期について
本文 jnr153Fun様、情報ありがとうございます。
この「東シナ」→「南シナ」の変更は1969年3月1日に、それまでの東京鉄道管理局が
東京北鉄道管理局、東京南鉄道管理局、東京西鉄道管理局に3分割されたことに伴う変更で、
それぞれ「東オク」 → 「北オク」、「東シナ」→「南シナ」、「東イイ」→「西イイ」
といったように改称されました。
よって、この日に全国一斉に変更があったというわけではありません。
このように鉄道管理局の改称に伴う区名変更は、はっきりした変更時期がわかるのですが、
問題なのが、「中ヒロ」→「広ヒロ」のような略号の支社から管理局への変更です。
配置そのものや正式名称の変更は伴わないので、変更時期の特定は変更そのものについて
記載されている資料を探し出さなければわからないと思われます。
現在この略号の変更について表にまとめています(基本的に年度単位でしかわかりません
が・・・)出来上がりましたら公開いたしますので、もうしばらくお待ちください。
また、引き続き変更時期の情報の提供をお待ちしていますので、よろしくお願い致します。

投稿者 クモイ103
投稿日 5月29日(水)22時56分40秒
タイトル 所属略号変更の資料(長文失礼)
本文

 おなじみ資料屋(謎)のクモイ103です。
所属の略号について、本棚を探ったら、いろいろ出てきました。
# 広島は「中国支社」でしたね。「中部支社」は名古屋地区でした。失礼しました。

◆鉄道公報 号外(昭和34(1959)年6月23日(火曜日))によると、「総裁達第318号」で
「車両の塗色及び標記方式規程」が定められ、その中の「別表第3」に、配属箇所略号として、
「広島鉄道管理局 広」という記載があります。
 また、上記規程の制定に伴い、同じ公報の末尾に、工作局からの通報として
「・・・その主な改正点は次の通りである。」という、たいへん親切な解説があって、その中に、
2 客車
 (1)車体外部の塗色は、ぶどう色1号をぶどう色2号に改めた。
 (2)配属箇所名略号で、青函船舶鉄道管理局の「青」は「函」に、客車の常備駅名略号で
青森の「アホ」は「アオ」、直江津の「ナホ」は「ナオ」、飯田町の「イヒ」は「イイ」、
塩尻の「ホシ」は「シオ」に、暖房車の配置個所略号で飯田町機関区の「イヒ」は「イイ」に改めた。
 配属箇所名で建設局及びその略号「建設」を追加し、
広島鉄道管理局の「廣」は「広」に字体を改めた。・・・などの記載があります。
あと、窓下のローマ数字による等級標記を廃止することも明記されているなど、
多岐にわたる分量の多い資料で、とても全部は書ききれましぇん(*_*)。
どうしても見たい方は、交通博物館の図書室へどうぞ(爆)。

◆一方、「国鉄客車配置表(昭和37年10月1日現在)」
(発行 鉄道友の会客貨車気動車グループ 昭和38年6月)では、広島から下関までの一帯は
「中国支社」として「中」の略号が使われています。
短期間に「廣」→「広」→「中」と変化したことになりますが、「中」への変更時期はわかりません。

◆時代は遡り、管理局名ではありませんが、
RP誌71号(1957年6月号)車両の動き(昭和32年4月分)より
○客車常備駅名略号の変更
 南稚内    ミナ → ワカ
 追分     ヲイ → オイ
 小樽     ヲタ → オタ
 大湊     ヲミ → オミ
 大館     ヲテ → オテ
 秋田     アタ → アキ
 新庄     シヨ → シン
 大宮     ヲヲ → オオ
 尾久     ヲク → オク
 新鶴見操車場 ツルソ→ ツソ
 名古屋    ナゴ → ナコ
 南福井    ミフ → フイ
 梅田     ウメダ→ ウタ
 神戸港    コヘコ→ ココ
 宮原操車場  ミハソ→ ミハ
 竜華操車場  リユソ→ リウ
 紀伊田辺   タナヘ→ タヘ
 岡山     ヲカ → オカ
 東唐津    ヒカラ→ カラ
 吉塚     ヨカ → ヨシ
 早岐     ハヤ → ハイ
 竹下     タタ → タケ
 直方     ナヲ → ノウ
 東小倉    ヒコラ→ ヒコ
 大分     ヲウ → オイ
 川内     セチ → セイ

ただし、同誌68号(1957年3月号)「読者短信」欄に、
「東鉄尾久客車区の略号が1月下旬頃から東ヲクから東オクに書き換えられている」
また、同誌69号(1957年4月号)「読者短信」欄では、
「大宮客貨車区の客車が2月4日から一斉に区略号をヲヲからオオに書きかえられた」
との投稿がありますので、ある期間の幅をもって変更が行われたようです。


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 5月31日(金)00時12分55秒
タイトル RE:所属略号変更の資料
本文 クモイ103様、いつも詳細な資料ありがとうございます。
とても勉強になると共に、今まとめている資料にとても参考になります。
広島周辺地区は、ほんとうに何度も変更されているようですね。
ほとんど変更されていない場所も多いのに、ここは十数年の間に
「廣」→「広」→「中」→「広」と変更になっていたようですね。
特に、いったん「中」になって「広」に戻っているのがすごい?ですね。
ちなみに「広」→「中」は1961年度、「中」→「広」は1970年度
のようです。
その他は、まとめ次第公開させていただく予定です。

倶楽部メモ(141) 平成14年 5月31日〜 6月3日

投稿者 jnr153Fun
投稿日 5月31日(金)00時26分56秒
タイトル 所属略号変更について
本文 車掌@仙コリ様,クモイ103様,こんにちは
 なーんか気になり出したらダメですね。ちょっと手元の資料をまさぐってみました。
お二人の調べられた資料の確認となりそうですが,先月の鉄ピク43系特集に,60年7月19日
「霧島」付属編成に「広セキ」が,62年2月17日225レ編成に「中セキ」があります。
また,RF201号:20系特集の資料,20系配置区の資料によると,
70年には「広ヒロ」「広セキ」が使われています。
 ということは,「広セキ」(遅くも60年7月19日)→「中セキ」(遅くとも62年2月17日)
→「広セキ」(遅くとも70年)という流れになりますね。
 先の「安芸」編成,「中ヒロ」表記がやはり適当なようですね。
ただ問題は,「中ヒロ」表記のインレタが,な,い…。
70年頃の特定日の編成があれば,都合がいいのですが…。

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