倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
日中線の客車・編成について
日中線記念館・使用客車の所属・牽引機



倶楽部メモ(98) 平成13年 7月30日〜 8月 3日

投稿者 103列車機関士
投稿日 7月30日(月)17時10分02秒
タイトル 日中線の事と客車の運用 
本文 みなさん。こんにちは、わたくし先日、熱塩の日中線記念館にいってきました。
駅前の老夫婦が鍵を預かっているらしく、おばあさんが帰ってくるまで入れませんでした。
ここの客車列車にとても興味が湧いてきました。
ここの列車を作りたいのですがどなたか編成の記録はお持ちでしょうか?
展示の写真からDE1089+オハフ612619+?はわかりました。
過去にスハフ32とオハフ61、オハフ332両というのも写真で見ました。仙ワカだったんでしょうか?
展示のオハフ612752が仙フクだったり、記念館の中のオハフ612160というらくがき、
最後に残っていた仙コリの2両の旧客、スハ432163、スハフ322357ときになることばかり、、、、
なんです。

投稿者 車掌@仙コリ  
投稿日 7月30日(月)20時52分03秒
タイトル RE:日中線の事と客車の運用
本文

103列車機関士様

日中線は私にとってもとても思い出深い路線です。
以前にも書き込んだ事があったかもしれませんが、私の母の実家が日中線の沿線でして
小さい頃遊びに行った際、通過する列車をよく見ていましたし、日中線のC11牽引の列車が、
私の唯一の現役時代の蒸気機関車牽引列車の乗車経験です。

さて当時の編成記録ですが、私自身は残念ながら記録をとっていないのですが、
当時の写真を探し出せばわかるかもしれないので、探しておきます。

資料では、JRRの国鉄気動車客車編成表83年版に記録がありました。
1983年4月1日(廃止のちょうど1年前ですね)の編成ですが
熱塩側 オハフ61 3035+オハ35 2161 喜多方側
配置は両車とも仙ワカ、牽引機はDE10〔郡〕だったようです。

客車については、仙ワカ配置の車両で磐越西線と日中線を担当していたようなので
当時の仙ワカ配置の客車を書き出して見ますと
オハ35  2041 2161 2179 2507 2905 2910
オハフ61 2527 2528 2542 2619 2706 2751
      3035 3044
の計14両でしたので、この中の2両が日中線に使用されていた事になります。

ちなみに少し前の1980年の時点での仙ワカ配置の客車は
オハ35  2496
オハ61  2580 2581 2582 2926 2929
スハフ32 2361
オハフ61 2527 2528 2542 2619 2751 3035 3044
の14両でした。

参考までに牽引機のDE10について、1983年当時の〔郡〕郡山機関区配置は
DE10 5 39 41 47 49 88 89
の7両で日中線と只見線を担当していたようです。

今現在私がわかる範囲は以上ですが、他の編成記録、特に蒸気機関車牽引の頃の記録を
お持ちの方がいましたら、情報の提供をお願いいたします。


投稿者 クモイ103
投稿日 7月30日(月)22時19分43秒
タイトル Re:日中線の客車
本文  大した記録ではありませんが、SL引退直前の昭和49年9月下旬
(日付不明、たぶん秋分の日がらみの連休)に乗車したときは、
牽引機がC11204、客車はオハ61+オハフ61(車番・連結順序不明)でした。
中学時代のことです(^^;。
ちなみに204号機は、昭和46年には秋田機関区にいたということです。
 DE10牽引時代の昭和53年12月にも一度行っていますが、編成記録は実家にあります。
やはり61系だったと思います。
なおその時は、623レの全区間と、折り返し624レの熱塩→会津村松間で、
編成上り方にワキ90000が1両ついていて、会津村松で側線に押し込んできたのを覚えています。
 うろ覚えですみません。

投稿者 221レ  
投稿日 7月30日(月)23時58分38秒
タイトル 57年8月の日中線 
本文

こんにちは!
やっと私でも説明できる話題になりました。
SL時代に乗れた車掌さんはうらやましい限りです。
私は57年8月ころ青春18のびのびきっぷで乗車しました。
当時の写真を見ると日中線924列車は
DE11 5+オハ61 2926+オハフ61 2528となっていました。
オハフ61の車掌室は熱塩側で、オハ61喜多方よりの妻面の左下フックに
赤いカンテラが尾灯として取り付けられていました。
客車は仙ワカ、DE11はボンネットの長いほうが熱塩よりでした。
模型でも簡単に再現できる編成ですね?

このとき乗務していた車掌さんに車内補充券を押し売りされました。

この時の青春18のびのびきっぷでは
7月にリバイバルはと、つばめの撮影、飯田線のモハ80系に乗車
上野(221列車)−平−郡山(スハフ322357)−喜多方−熱塩−喜多方−新津間を
客車列車のみ乗り継ぎ、翌日宮内から米原行き客車列車に乗りついだ等
私にとっては思い出の夏でもあります。
客車で行く18きっぷは本当にのびのびしていましたが
いつの間にか旧型客車ものびのびの文字も消えたのでした。
この夏は常磐上野口、高崎線等で旧客列車に乗れた最後の夏でした。

日中線では会津加納扱いの混合列車もあったらしいのですが
(種村直樹著作 「鈍行列車の旅」あたりに書いてあったような?)
私は残念ながら見ておりません。
それでは。


投稿者 103列車機関士  
投稿日 7月31日(火)10時31分43秒
タイトル ありがとうございます
本文 仙コリ様、クモイ103様、221レ様、どうもすみませんでした。熱塩は涼しくていいところでした
今は駅だけになってしまいましたが、あのホームにたってウスメで眺めたら
DE10がやってきたような気がしました。
私は86年版の配置表を持っていますが、仙コリの廃車未決済車のスハ43とスハフ32は
日中線とは関係なかったようですね。
最後の最後まで客車列車だった日中線、もう、ないのですね、、、、

投稿者 クモイ103
投稿日 7月31日(火)12時10分30秒
タイトル 訂正と追加:日中線
本文  7月30日22時19分の私の投稿で、「ワキ90000」とあるのは「ワム90000」の間違いでした。(恥)
 なお、貨物営業末期の日中線では、会津加納のみ駅員配置という話をどこかで読んだ気がします。
会津村松では、貨物側線脇に日通の事務所があったので、日通の人が国鉄から業務委託を受けて、
貨物の積み卸しをしていたのではないかと思います。

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 7月31日(火)16時21分40秒
タイトル 日中線の編成まとめ?
本文

103列車機関士様、日中線についていろいろな情報がよせられてなによりです。
前の書き込みの後、過去の仙ワカ配置の客車を調べたところ、少なくとも昭和40年代以降は
圧倒的にオハ61・オハフ61が多かったようです。
ということで、模型で再現するにあたってはオハ61+オハフ61といった編成に、
牽引機はDE10orC11といったところが無難かと思います。
車番については皆様の書き込みを参考にして下さい。

先の書き込みで書いた母の実家ですが、クモイ103さんの書き込みにあります
会津加納駅のすぐ近辺(駅の写真を撮れば角度によっては写りこむ程度)だったのですが、
確かに会津加納駅には駅員がいたような気がしますし、
他の途中駅にはいなかったような気がします。
貨物営業その他については記憶が・・・・
なにか思い出しましたらまた書き込みますが、よく遊びに行ってSL牽引列車に乗車したのは
小学校低学年の頃なので・・・


倶楽部メモ(99) 平成13年 8月 4日〜 8月11日

投稿者 やまだ
投稿日 8月 4日(土)01時01分49秒
タイトル 日中線の客車の謎・オハフ61−2706 
本文

皆様こんばんは・・

日中線が話題になっていますね?

103列車機関士様の御指摘どおり仙フク、仙コリ、仙ワカの配置変更はどうなって
いたのでしょうかね? 現存する保存オハフや近年まで残っていたオハフが仙コリ様の
ご提供の情報によると仙ワカに在籍していたようですし・・・
その中でオハフ61−2706は89年の今頃、長町操車場に在った仙台電車区長町派出所
で最後に解体された旧客でした。 その時の表記は仙フクだったので、おそらく79年から
の50系投入による玉突き転配で仙台や福島から会津若松へ転属し、その後の日中線の廃止
から検査周期に余裕がある等の理由で再度福島へ転属したのではないかと思われます・・
おそらく他の車輌も同じような理由で仙鉄局管内をぐるぐる廻っていたのかもしれませんね?

そう言えば東北本線ではGマ−クが付いた茶塗りのオハフ61を見たことがあるのですが、
あれは尾久や宇都宮(昔、上野口で宇都宮で増結が2両程度あったそうですが・・)高崎に
いたオハフ61が仙鉄管内に流れたモノなのでしょうか?(話題が逸れて済みません・・)


投稿者 C63
投稿日 8月 4日(土)10時30分11秒
タイトル 日中線 
本文  懐かしい話題になりました。
C11の頃に一度乗ったきりですのであまり詳しく記録していませんが、
C11+客車2両+ワムといった編成だったと記憶しています。
 C12が入線していたことは何かの雑誌に載っていたような記憶がありますが、よくわかりません。
たまたま保存していた「旅と鉄道」誌No.13(1974秋)に
 C11 63 + オハ61 2929 + PC1両といった記事が載っていました。
 ところで、先日韓国国鉄に乗る機会を得ました。
釜山−海雲台間20.7kmでしたが、重連のDL+客車5両+荷物車でした。
乗客も多く、十数年前の日本国鉄の雰囲気が感じられました。 

投稿者 車掌@仙コリ  
投稿日 8月 4日(土)14時35分52秒
タイトル 仙ワカの客車
本文

やまださんから質問のありました、仙フク、仙コリ、仙ワカの配置変更についてですが、
仙ワカに最後まで配置されていたオハフ61について調べてみました。
各車の昭和40年以降の配置についてですが
2527 ?S58仙ワカ S59/01廃車
2528 ?S58仙ワカ S59-  仙コリ S61/03廃車
2542 ?S43東コフ S44-S45仙セン S46-S58仙ワカ S59- 仙コリ S60/02廃車
2619 ?S41仙フク S42-S58仙ワカ S59- 仙コリ S59/07廃車
2706 ?S41高タカ S42-S43千キウ S44-S56仙セン S57-S58仙ワカ S59-仙コリ S61/03廃車
2751 ?S42秋アキ S43-S58仙ワカ S59- 仙コリ S59/11廃車
3035 S41-S58仙ワカ S59- 仙コリ S61/03廃車
3044 S41-S58仙ワカ S59- 仙コリ S59/07廃車
といった状況で、問題の2706以外は、昭和40−50年代のほとんどが
仙ワカに配置されていたようですが、2706はだいぶ転属していたようですね。
実際の転属の理由というのは、現場にいた方でないとわからないですが、
50系投入の影響なのでしょうか?
当時は50系投入初期で、仙センもまだまだ50系よりも旧客が多かった状況ですので、
1両だけがなぜ仙ワカに転属してきたのか謎ですね。
全車が昭和59年に仙コリに転属していますが、日中線廃止と共に?仙ワカ自体も廃止?
されたようなので、全車が仙コリに転属のうえ休車、そのまま廃車となったようです。
また、2706の廃車時の表記が仙フクになっていたとの事ですが、資料(JRR
気動車客車情報)では最終配置は仙コリになっているのですよね。
書類上の廃車から実際に解体されるまでの間に転属したのでしょうか?
(そんな事があるのか?あるいは資料の間違えか?)

参考までに日中線記念館に保存されているオハフ61 2752の配置歴ですが
-S42秋ヨテ S43-S47仙ワカ S48-仙セン S59/06廃車となっており
最終配置は仙センですが、一時期日中線で使われていた車両のようです。

また、最初の103列車機関士さんの書き込みにありましたオハフ61 2160
スハ43 2163・スハフ32 2357につきましては、仙ワカに配置されていた事は
ないようですので、やはり日中線を走った事はないようです。


投稿者 オロネ10  
投稿日 8月 6日(月)11時20分13秒
タイトル 日中線、C12 
本文 その後、日中線C12の証拠写真を探すべく、部屋をあさったのですが、出て来たのが、
残念な事に、走り去る方の「ついで写真」のみ。正面の「C12力走」が見つかりません。
白煙を上げて、かなり力走している写真である事は確かなのですが。
走り去るC12の次位には、トキが付いていました。
私の記憶では、客車2輌だと思っていたのですが、記憶はアテになりませんね。
撮影時期は昭和43年3月の筈です。雪が残り、その朝は一面の霧でした。
トキの後ろが写っていないので、この場には役に立ちませんが。
その頃は「C11」は全く入線していなかったと思います。
日中線は「C12」と言うのが、当時の常識(?)であったように記憶しています。
日中線の開通時期は知らないのですが、恐らく開通時から「C12」ではなかったのでしょうか。
そうすると「C11」より長い間働いていた事になりそうですね。

投稿者 車掌@仙コリ  
投稿日 8月 6日(月)16時58分16秒
タイトル 日中線の牽引機
本文

日中線の牽引機について、いろいろと調べてみました。
まず日中線の歴史ですが

昭和13年 8月18日 開業
昭和49年11月10日 蒸気機関車引退
昭和59年 3月31日 廃止

となっており、会津若松機関区に所属していたC型タンク式蒸気機関車は

戦前〜昭和25年頃 C12が多数 2120(旧称B6)が2両
昭和25年頃〜   C12が多数 C10・C11が数両
昭和30年頃〜   C11が多数 C10が数両・C12が2両
昭和38年頃〜   C11が多数 C12が2両
昭和45年頃〜   C11のみ

となっていました。
オロネ10さんの情報により、昭和43年の時点での日中線の牽引機がC12であった
ということですので、昭和30年頃から昭和45年頃のC12が2両といった時期は、
その2両のC12が日中線用であったと考えられます。
C12型は線路規格の低いローカル線用で、C11より軸重軽減した機関車のようなので
典型的なローカル線である日中線に投入され、その後の路盤改良等でC11が投入された
のでしょうね。
機関車についてはあまり知らないため、開業初期に2120が牽引した可能性というのが
あるのかどうかまったくわかりませんが、まとめてみると

開業時〜昭和45年頃 C12(初期は2120の可能性有?)
昭和45年頃〜    C11
昭和49年11月〜  DE10またはDE11

といった事になり、C11の牽引はわずかな期間だったようですね。
蒸気機関車引退の時点での牽引機がC11であったため、C11のイメージが強いようですね。
(私が実際に見たのは、時期的にC11で間違いないようですが・・・)

ところで、日中線末期のディーゼル機関車牽引時代についての質問なのですが、DE11は
本来入れ換え専用機ですよね?
なぜDE10に代わってDE11が牽引していた時期があったのでしょうか?


倶楽部メモ(102) 平成13年8月18日〜8月24日

投稿者 クモイ103  
投稿日 8月21日(火)12時25分52秒
タイトル 今ごろ日中線
本文

 終わった話題の蒸し返しですみません。
実家で日中線の編成記録を引っ張り出しましたのでご報告します。

昭和49年9月23日 621レ・623レ
C11 204
オハフ61 3044
オハ61 (車号不明)

 当日はこの編成が全列車(!)を担当したようです(私は624レまでしか確認していませんが)。
なお、カマの向きは、朝方の621レ〜622レでは熱塩向き、
夕方の623レ〜624レでは喜多方向きと逆転していました。
622レから623レまでの間、客車は喜多方駅4番線に留置されていましたが、
カマは622レ到着後すぐに3番線に転線し、別編成の会津若松行き列車を牽引して
一旦帰区しています。

昭和53年12月19日 623レ
DE10 47 〔郡〕
オハフ61 3035 〔仙ワカ〕
オハ61 2926 〔仙ワカ〕
ワム124712 (形式ワム90000)

 前にも書きましたが、最後尾のワムは熱塩までついて来て、
折り返し624レの会津村松で解放、側線に押し込まれました。
側線には往きに通った時からワラ1がひとりぼっちでたたずんでいましたが、
これで仲間ができて、624レの走り去る駅構内には、2両の貨車が仲良く並んでいました。


倶楽部メモ(109) 平成13年 9月15日〜 9月18日

投稿者 やまだ
投稿日 9月15日(土)16時41分59秒
タイトル Re.仙ワカの客車・・
本文

ご無沙汰しております・・・
仕事が忙しくて、久しぶりに実家に帰ってきました・・・(疲れました・・)
一月も遅れてしまい恐縮なのですが、日中線の客車の話題では車掌@仙コリ様には
オハフ61−2706や他の車輌の配置履歴を大変詳しく御教示頂きまして有り難う
ございました。 (ご返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした・・)

御指摘にありましたようにどの車輌をとってみても転籍を頻繁に繰り返していたよう
ですね。 また、日中線記念館に保存されているオハフ61は仙センで廃車になった
モノだった事は驚きでした・・もしかすると幼い頃に北仙台から山寺まで乗った旧客
は茶色で全てのドアをHゴム改造した車掌室付きの車輌だったので、もしかしたら
この車輌にはどこかで御世話になっているのかもしれませんね?

それと、「青葉」「みちのく」など自分は知らない時代の往年の東北急行の話題が
出ていましたが、現役のED71を見ていた私は客車末期の電機牽引の「青葉」も
見てみたかったものです・・・トミックスから71がリリ−スされたら良いのです
がね? 交流電機は製品化の機会に恵まれないのが残念でなりません・・・


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