倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
戦前の特急「富士」の牽引機
九州内の牽引機・大里機関区・編成の短縮



倶楽部メモ(97) 平成13年 7月23日〜 7月27日

投稿者 221レ  
投稿日 7月23日(月)23時02分06秒
タイトル C55の急行
本文 車掌さんほか皆さんこんにちは!
C55も急行高千穂牽引の任に活躍していたのですね?
日豊線は勾配区間が多く
蒸気時代は柳ヶ浦−立石あたりでも補機を付けていたくらいだから
D51のテンダ車が必要だったのかも知れませんね?
ところで以前、茨城県龍ヶ崎市にある歴史民族資料館で
竜ヶ崎鉄道(現 関東鉄道竜ヶ崎線)の写真展を見たことがあるのですが
戦後も無煙化するまで活躍したというマッチ箱客車(古典客車)の写真に混じり
佐貫駅を発車する急行列車という写真がありました。
そこには常磐線で活躍したC55流線型の姿がありました。
戦前は急客機としても活躍していたのですね。
話を九州に戻しますが
私の親父が子供のころ小倉でC55流線型をよく見たというのですが
関門トンネルが開通したころ
1・2等特急富士の九州内の牽引機ってどの機関車だったのでしょうか?
戦争で中止されるまでのわずかの間でしたが
C55が特急牽引に活躍する場ってあったのでしょうか?
もしご存知の方がいたら教えてください。
なんとなくC51のような気もしますが・・・
それでは。

投稿者 8927
投稿日 7月24日(火)13時54分37秒
タイトル 富士 九州内の牽引機
本文

戦前の「富士」 九州内の牽引機はC57みたいですよ。
ただ C57の牽引定数 九州線内各駅構内の有効長の関係で 
門司駅で展望車など数両を切り離しての運転だったそうです。

C55の特急牽引に付いても調べてみましたが 同じく戦前 昭和12年頃 
名古屋区の流線形C55が不定期「燕」1011レ・1012レの 名古屋ー沼津間を牽引した
と言う例しか確認出来ませんでした。戦後に付いては不明です。


投稿者 マイロネフ37  
投稿日 7月24日(火)15時38分10秒
タイトル C55について
本文  C55流線は特急牽引よりも急行牽引の方が断然多いです。
九州内では、大里機関区のC5534などがいて、門司〜鹿児島をロングランしていたには有名ですね。
ところでその大里機関区について詳しく知っている方はいらっしゃいませんか?
是非お教えいただきたいのですが・・・

投稿者 8927
投稿日 7月24日(火)16時20分40秒
タイトル 大里機関区
本文 大里機関区と言うのは 門司機関区の旧名称みたいです。
と言うわけで私からも質問。
門司機関区と門司港機関区の違い(歴史など含めて)について ご存知の方お教えください。

投稿者 221レ
投稿日 7月24日(火)21時05分19秒
タイトル レスありがとうございます 
本文 8927さんマイロネフ37さん早速のレスありがとうございます。
C55流線型も特急牽引の任に就いた事があったのですね。
以前、トミーの幼児向け玩具超特急ヒカリアンの悪役C55ウッカリーの
パッケージに昔の超特急、特急列車を引いたことがある
と書いてあったのを疑問に思っていたのですが
うそではなっかたのですね。
C53流線型ならわかるのですが・・・
しかし、登場したとこはヘビーパシフィックC53が登場しており
すぐに改良型のC57の登場もあり
悲劇のライトパシフィックだと思っていました。
軽量化しすぎたC54よりは活躍していましたが・・・
でも、C54も当初はC51と共通運用だったのですね?
C55が東海道本線で活躍したとは知りませんでした。
どうもありがとうございました。

投稿者 クモイ103  
投稿日 7月24日(火)23時37分50秒
タイトル Re:大里機関区
本文

 機関区そのものの話ではありませんが、関係ありそうなのでお話しさせていただきます。

 大里(だいり)は、8927さんのコメントの通り、門司の旧称です。
昭和17(1942)年の関門トンネル開通に伴い、それまで「門司」と称していた起点駅を「門司港」に改称し、
新たに本州からの線路がつながって重要なジャンクションとなった大里駅を「門司」と改称したのです。
 「大里」時代の現・門司駅は、旅客列車にとっては単なる中間駅でしたが、実は貨物輸送の拠点でした。
というのは、関門トンネル開通前の本州−九州間の貨物輸送は、
現在の門司港−門司間にある小森江駅の場所付近に「小森江桟橋」が存在し、
「下関桟橋」との間で、専用の連絡船による貨車航送が行われていたのです。
関門航路は、青函航路や宇高航路と違って客貨が分離されており、
貨物航路の方を区別して「関森航路」とも呼びます。
そして、小森江桟橋に附属する貨物ヤードは、大里駅に隣接していたと思われます。
そこから推測すると、「大里機関区」は、もともと貨物用の機関車が所属する基地だったのでは
ないでしょうか。

 ちなみに、当時の門司駅(現・門司港駅)では、駅に隣接した「門司桟橋」に
旅客専用の連絡船が発着して、下関桟橋との間で旅客輸送を行っていました。
トンネルの開通で、貨物輸送の関森航路は廃止されましたが、
旅客輸送の関門航路の方は、「渡し船」的性格を兼ねていたため、減便はされましたが存続しました。
しかし、昭和33年の関門国道トンネル開通や、民間航路の台頭で客を奪われ、
昭和39年10月31日限りでひっそりと姿を消しました。
 今も門司港駅の構内に、当時の桟橋へ向かう連絡通路の遺構があり、説明パネルがあります。
ただ、桟橋自体のあった場所は、埋め立てによって面影はありません。

 客車列車と関係なかった・・・f(- -;)


投稿者 大キト
投稿日 7月25日(水)11時43分00秒
タイトル 九州内の富士
本文 車掌さん皆さん久し振りです、
戦前の富士号の展望車が門司で切り離しとありますが、これについて詳しく教えて頂けないでしょうか、
昭和17年年末に多客対応で展望車を含む優等車を一部普通車に替えて処置しましたが、
その時は長崎着の展望車は長崎に留置して年始明けに付け替えて復帰しています、
翌年の年末年始処置では博多止まりで竹下で展望車他優等寝台車を留置して普通車に替え、
年始明けに復帰させています
牽引定数は関門トンネル開通に合わせて改正されてますが、門司で切り離しは始めて聞きましたので、
そのところを聞かせていただければ大変勉強になります。

投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 7月25日(水)15時45分19秒
タイトル 戦前(戦時中)の特急「富士」 
本文 221レさん、8927さん、大キトさん、こんにちは。
戦前(戦時中)の特急「富士」の話題、大変興味深いものがありますね。
展望車は当時の特急列車の顔だったと思うので、途中駅での切り離しというのは
ちょっと考えがたいような・・・
もっとも戦時中という特殊事情があったのでしょうが、それにしても当時の特急列車は
基本的に一般の方が気軽に乗れるような状況ではなかったのですよね?
それに国や軍の要人が乗車するための一等車は必要不可欠だったのでは?
(当時の情勢はよくわかりませんが、長崎(佐世保)は重要な軍港でしたよね?)
詳しい事情をお知りの方がいましたら、情報の提供をお願いしたいと思います。

投稿者 8927
投稿日 7月26日(木)13時48分29秒
タイトル 「富士」の展望車切り離し
本文

特急「富士」の展望車の切り離しについて もう一度調べたのでご報告します。

展望車切り離しの情報の出所と言うのは レイルbSの古山善之助氏の記述によります。 

・・・九州に入った「富士」は九州線内の各駅構内の有効長および機関車の牽引定数の関係で、
門司駅でイテを初め、一部客車を解放し、編成を短くして長崎まで運転されました。
ハネは既に廃止されて、戦局の進展は次第に優等列車運転の上にも暗い影を落としてくることに
なります。・・・

これをもとに 展望車切り離しについて書いたわけですが 「富士」の九州乗り入れ関して 
別の史料にこうも書いてありました。

・・・当時中学生だった私は、九州入りした特急「富士」と近くの踏切で対面したわけだが、
装飾のまったく見られないC57が客車をひいて眼前を通過し、最後尾に連結された1等展望車と
そのテールマークが、かろうじて特急列車だと認識させてくれるくらいで感激は薄かった。・・・

以上は 鉄道ファン306号の奈良崎博保氏の記述で 
九州乗り入れ当日の「富士」について書かれたもので 少なくとも九州乗り入れ当初は 
展望車が 九州内でも連結されていたことがわかります。
私も 実際にそれを見たと言う人居ると言うことで 九州内でも展望車は連結されていたのでは・・・
と思い始めています。
古山氏は後に レイルで「蒸気全盛時代の国鉄の特急と急行列車」を連載されていて 
「富士」についても再度書かれていると思うのでそれに当たれば また何か解るかもしれません。


投稿者 大キト
投稿日 7月27日(金)11時23分50秒
タイトル 富士の展望車
本文 車掌さんどうも、8927さん資料どうも、
今「竹下客車区史」を整理しているので富士の記述は大事な部分になるので聞いてみましたが、
古山さんの記事が元だったのですね、
或る一時期の話だと思いますが、当時の門鉄局報には編成短縮は載っていなかったもので
興味がありました。
以前に長崎に到着後は翌日の発なので機関区の転車台で1両づつ切り離して列車方向を転換させていた
と言う話しを聴いた事があり、竹下でも昔転車台でひっくり返した事があると証言を集めていましたが、
鉄道車両などの輸送機器の写真は軍の厳命でスパイ扱いされるので個人で撮る事は
出来なかったのではないかと言う事で写真は見つかりませんでした、
そこで門鉄局報を調査していたらマロネ2両を門司で切り離す事は載っていましたが
展望車は終着駅まで通すように書いてありました、
使用出来る方々は軍や政財界や地元の名士でしょうから面子にかけても
展望車は連結していたと考えられます、
今のご時世とは違って身分に未だ上下が残っていた時代ですから特別車は必要なわけで、
昭和18年年末までは展望車は終着まで来ていたと言うのが局報の結果です、
巨大なお役所仕事の通達ですので嘘は書けないと思うのですが?。
九州入りした展望車は軍用車を除いて長崎造船所の進水式の式典に参加するなどで
戦後「さちかぜ」や中国使節の乗車で「かもめ」などに増結された記録が局報に残されています。
国鉄時代の話は秘守義務という壁があります、
国鉄で知った事は外部に洩らさないと言う決まりが現役・退職職員にあるので厄介です。

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