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             伊藤正宏さん> 
             マニ37 1、2のデッキ改造の件、ご教示ありがとうございます。私の情報不足でした(反省)。 
            キサハ34さん> 
             「西海」の米軍用マニの車体外観上の特徴としては、 
            1.側面中央の車号の位置には軍番号が標記されていた。但し上段「マニ」下段「M-****」の2段標記。 
            本来の国鉄車号は、妻面の形式名の位置に書かれていた。 
            2.デッキ扉、荷物扉ともに、窓ガラスの代わりに車体色の鉄板がはめてあった。 
            但し一部例外あり(下記参照)。 
            3.荷物室の側窓には保護棒がなく、ガラスの内側に白っぽい鉄板の目隠しが当てられた写真も多い。 
            模型ではクリア窓ガラスの内側に白い板を貼り重ねれば雰囲気が出そう。 
            ・・・といった点が挙げられます。窓配置の改造などは無いようです。各車両の特徴は、 
            国鉄車号マニ31 18・軍番号3203 
             マニ31のうち昭和6〜7年製の二重屋根車のラストナンバー。写真:「とれいん」1996年7月号P.85。 
            国鉄車号マニ31 38・軍番号3221 
             昭和7〜13年製の丸屋根車。写真は今のところ持っていません。 
            国鉄車号マニ32 2・軍番号3217 
             マニ32のうち昭和15年製の長柱(張り上げ屋根)車。雨樋は鉄製の細いもの。 
            車掌室と反対側のデッキ扉はメクラ化されておらず、その側の貫通扉と共に保護棒がある。 
            写真:「とれいん」1996年7月号P.91。 
            国鉄車号マニ32 23・軍番号3212 
             昭和15年12月以降、同17年まで製造された一般丸屋根車。 
            写真:「とれいん」1996年7月号P.93および1993年11月号P.71。 
            ・・・と、全て形態の異なる個性的な顔ぶれでした。 
             軍番号はもともと、カタカナの読めない進駐軍の将兵が、 
            例えば「マイロネ38 1」と「スイロネフ38 1」などを取り違えて混乱したのに懲りて、 
            国鉄車号に関係なく自分たちにわかりやすい整理番号を定めたものです。 
            この辺の事情は、河原匡喜(かわはらまさき)著「連合軍専用列車の時代」(2000年5月光人社刊)の 
            P.95〜97に述べられています。 
             この軍番号は用途別の番代区分になっており、3200番代は郵便車(および郵便荷物車)でした。 
            これが国鉄車号の型式番号31、32と偶然まぎらわしく、雑誌か何かで、上記のマニ31を見て 
            「このマニ32は妻面にマニ31と書いてある」という勘違いの記述もあったような記憶があります。 
             「M-」は、昭和27年2月1日付けの鉄道公報に記載された通達により追加されたもので、 
            こうした勘違いや、荷物車が郵便車として使用される事による混乱を、内部的に防止する 
            意図があったものと思われます。 
             「霧島」の件ですが、昭和40年当時の付属編成は熊本回転の3両でした。 
            運用番号「熊附1」であり、本来熊クマの運用のところ、門トス車がイレギュラーで入った可能性が 
            高いと思われます。 
             オユ11は、昭和40年10月改正で東京−熊本間に「東郵2」として連結されるようになりました。 
            但し、連結位置は編成の鹿児島方端部でした。東京方と仰るのは確かでしょうか? 
            またRF誌の写真の撮影時期を存じませんが、上記改正以前だとすれば、オユは無いのが所定です。 
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