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             キサハ34さん、こんにちは。 
            > 私の手許の資料では郵便車はオユ11で、オユ11 4を連結しています。 
             市販の本に載っている、昭和36(1961)年3月1日の上り列車のものでしょうか? 
            EF58 47+スハフ42 147+オハ36 4+ナハフ11 28+オハ36 32+ナハ10 18+ナハ11
            94+オシ17 23 
            +スハネ30 30+ナハネ11 67+ナハネ11 71+ナロ10 8+スロ51 24+マロネ29
            111+オユ11 4 
             私もこれを参考に模型化を計画しています(^^)。 
            ところで、オハ36に木枠窓車がいたというのは初めて知りました。ご教示ありがとうございます。 
            車番が特定できるといいですね・・・(悩) 
            > この編成、オールプラにするには難しいですね。(私は塗装がはげやすいため、アンチブラス派です) 
             下地処理をきちんと施せば、かなり剥がれにくくはなりますが、やはりプラに比べれば 
            剥げやすいのは事実です。 
            私も塗装に関してはやや苦手意識があるのですが、欲しい編成を手にするため頑張ってます。 
            (でもご多分にもれず、手つかずのキットの山・・・f(- -;) 
             さて、ここから実車関係の少々ディープな話題になる事をご容赦下さい。 
             上記の編成記録には、いくつか興味ある点があります。 
            当時の「阿蘇」の編成は、基本編成(熊1)が全区間を走破、 
            東京方2両の付属編成(門附1)と郵便車(東郵3)は東京−門司間のみの連結ですが、 
            1.所定では最後尾にマニ車(熊1の編成に含まれる)がついている筈ですが見あたりません。 
            郵便車は門司から連結なので、熊本→門司間はマロネを最後尾にして走ったのか? 
            という疑問が湧きます。私の模型では、マニ74あたりを組み込んで15連(!)にしようと 
            思っています。 
            なお、下り列車では連結順序が異なり、郵便車が機次位でした。 
            2.郵便車は「マユ」または「スユ」所定と思われます(文献によって異なる)。 
            少なくとも3月改正でオユに変更されたという資料は見あたりません。 
            当時東シナ区にはオユ11が6両おり、「筑紫」の東京−門司間に連結される「東郵1」に 
            定期運用されていた模様ですが、単純に東京−門司間の往復であれば3両で運用でき、 
            残り3両の予備車が「阿蘇」の「東郵3」にアルバイトしに来たことは十分考えられます。 
            但し「東郵3」は門司から別列車で鹿児島まで足を延ばす運用で、少なくとも4両以上は必要 
            だったことから、オユ11の他に旧型のマユまたはスユ(41?)が必ず運用されていたはずです。 
            ちなみに「東郵2」は東京−佐世保間「西海」併結のスユ車の運用で、4両使用(推定)に対して 
            スユ42が5両配置で、実際の編成記録にもスユ42が登場することから、専らそれのみ 
            だったのではないかと思われます。 
            3.ナロ10のところは、所定はスロ51ではないかという気がします(自信は無し)。 
            当時ナロ10の1〜18は鹿カコ配置で「霧島」「高千穂」に運用され、使用16両・予備2両という状況 
            でした。他局の所定運用まで受け持つ余裕など無かったはずです(当時の「阿蘇」は3組運用)。 
            ただ、門タケの「かもめ」用予備車(19〜27の8両配置、使用6両・予備2両)や、東鉄で運用不明 
            (?)だった28、29の2両を合わせれば、何とかなっていたのかも知れません。 
            なお、ナロ10の残る30〜33は大ミハで「日本海」に運用されていました(使用3両・予備1両)。 
             大キトさん、どう思われます?(って、これだけ喋ってから人に振るか?) 
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