倶楽部メモ:客車倶楽部過去ログ集:客車列車の旅
倶楽部メモSP
旧型客車の茶塗装
旧型客車の晩年まで茶色(ブドウ色)の車両が存在した理由




倶楽部メモ(20) 平成11年 9月10日〜 9月21日



投稿者 大和路環状線
投稿日 09月16日(木)20時24分09秒
タイトル 旧客の茶塗装(質問)
旧型客車は、晩年(1985年頃)まで茶色の旧塗色車が少なからず残っていましたが、そもそもこれは何故なのでしょう?
カラーリングの変更そのものは、改装による近代化工事の大掛かりさとは異質なものでしょうから、
時代遅れな印象を与える色などはいつまでも引き継がずに、トットと変更して良かったのではと思うわけです。
(つまり、財政的理由ではなさそう。)

車両の一般的な塗り替え周期についてはよく知らないのですが、
少なくとも茶色一辺倒の時代から何十年も塗り替えしないわけではありませんよね。
最末期の旧塗色の旧客より、今の久大線用12系・50系の色褪せの方が格段に酷かったりしますから。(^^;;
青に変えられた仲間が大量にいる中で、中途半端に旧色を残す必然性って何だったのでしょうか?

近代化工事未施工車であることをボディ色で示したとも考えられますが、そうなっていない例も多々・・・。
現在も旭川にいるスハフ42 2245は、盛モカ現役当時既に改装済みでありながら茶色でしたし、
和田岬線のオハ64、四国のオハ41にしても然りです。
逆に未改装のまま青色に改められたものは、それ以上に枚挙にいとまがないでしょう。

なぜ最後まで茶色だったのか、どなたかお答え頂けると嬉しく思います。



投稿者 車掌
投稿日 09月18日(土)10時30分26秒
タイトル RE:旧客の茶塗装
大和路環状線さん、こん**は。
旧型客車の塗装色については、確かに興味深いものがありますね。
手持ちの資料を調べたところ、交友社発行の図解客貨車に客車の塗装についての記述がありましたので、一部要約しますと
・一般客車は車体外部はぶどう色2号(茶色)
・特別な例として特急用客車や和式客車は青15号にクリーム1号の飾帯
・急行列車用には設備の整った客車を青15号に塗色
とあります。
このことから考えると、旧型客車の塗装色については、最後までぶどう色2号(茶色)が標準色であったのではないかと思われます。
その後、基本的に近代化工事の施された車両が青15号になったわけですが、
確かに大和路環状線さんのおっしゃるとおり、例外が多数存在していました。
この話題には大変興味がありますので、詳しい方のフォローを期待致します。



投稿者 水ミト
投稿日 09月18日(土)11時46分29秒
タイトル スハフ42 2245
こんにちは。
スハフ42 2245って、近改受けていたのですか?
印象では、車内白熱灯で壁は塗りだったような気がしますが。
間違っていたら、すみません。

そもそも近代化の定義が今一つはっきりしませんね。
どの場所・項目を改装したら、近代化になるのか。
きっと内部文書では、定義されているのでしょう。

ところで塗装の件なんですが、工場の都合なのでは? と思ったりしています。
基本的にブドウ色でも、たまたま青になったり。
ブドウ色は当時電機にも使っていましたし。
色を納入するのには、抵抗がなかったと思います。



投稿者 大和路環状線
投稿日 09月20日(月)01時14分08秒
タイトル 旧客の茶塗装にお礼
車掌さん、水ミトさん、早速のレスありがとうございます。
かなり今更系のネタなので、質問者としてちょっと心配してました。(^^;
レスがちょっと長くなりましたが、どうかお許し下さい。m(..)m

●車掌さん
>交友社発行の図解客貨車に客車の塗装についての記述がありました
>一般客車は車体外部はぶどう色2号(茶色)
情報をどうもありがとうございます。(^^)
「一般客車」とは、ほとんど青色にならなかったオハ31・スハ32・オハ61シリーズに限定して言っているのでしょうか・・・。

>急行列車用には設備の整った客車を青15号に塗色
ここでの記載に限ったことではありませんが、「急行列車用」の定義も引っかかりますね。
かつ「設備の整った」となると、43系・10系辺りに絞られてきそうですが、
実際にはオハ35系(戦前・戦後製を問わず)にかなり青色が存在しましたから・・・。
(オハ35系って、急行列車で多用されていた時期ありましたっけ?)
あるいは「設備の整った」とは、モケット付きの広窓車全般を想定しているのでしょうか・・・。

少数派だとは思いますが、スハ43系にも未改装ぶどう色のものが最後まで残っていましたね。
昭和50〜55年頃の夜行急行に未改装のニス塗り車が入ることもあったのでしょうか?
(密かに興味があります。(^^))

●水ミトさん
>スハフ42 2245って、近改受けていたのですか?
2245の内装は少しユニークなもので、非常に驚いたのを覚えています。
私が目撃したのは昭和60年8月、函館〜札幌夜行の41レでした。
(同年3月改正の時、2245は盛モカ表記のまま函ハコに借り出されましたよね。)

ボディはぶどう色、車内は白熱灯でしたが、内装(壁)は板ではありませんでした(塗りつぶしでもない)。
かと言って、通常の近代化改装客車、或いは国鉄型EC・DCに共通のベージュのものでもありません。
材質一般に関する詳しい知識がないんですが、ザラザラ系の感触で、全体的に薄緑がかった色合いのものだったと記憶しています。
私の旧客フィールドは山陰線系でしたが、そのような車両にお目にかかったことは一度もありませんでした。

もしかすると、私が乗車したのは改装して間もない時期(?)で、
水ミトさんのご指摘どおり、本当の盛モカ現役時は板張りだったのかも知れません。

>そもそも近代化の定義が今一つはっきりしませんね。
内壁塗りつぶしの「似非近代化」車はどうなるんでしょうね。(^^;

>ところで塗装の件なんですが、工場の都合なのでは? と思ったりしています。
>基本的にブドウ色でも、たまたま青になったり。ブドウ色は当時電機にも使って
>いましたし。色を納入するのには、抵抗がなかったと思います。
「工場の都合」ですか。車掌さんが紹介して下さった記述に対しても言えそうですが、
実際はそれほど杓子定規的に扱われていたわけではなかったのかも知れませんね。

それにしても利用者側から見て、昭和50年代末期当時のぶどう色は違和感なかったのでしょうか。
昭和60年まで、大阪駅・京都駅にもバリバリ顔を出していましたが、お世辞にも違和感なしとは・・・。(^^;;
でも、カラフルな車両百花繚乱の現在とは、少し受け止められ方が違っていたとも考えられますね。

さすが「雑客」と呼ばれるだけあって、限りなくmysteriousな世界だと思います。
同じ客車ながら、50系などと根本的に異なる大きな魅力はそこにあるのかも・・・。(^^)



投稿者 水ミト
投稿日 09月20日(月)12時41分16秒
タイトル Re:旧客の茶塗装
こんにちは。

>ここでの記載に限ったことではありませんが、「急行列車用」の定義も引っかかりますね。
>かつ「設備の整った」となると、43系・10系辺りに絞られてきそうですが、
>実際にはオハ35系(戦前・戦後製を問わず)にかなり青色が存在しましたから・・・。

急行用は一応、35系42系43系10系だと思います。
35系は一般型末期の越前等で運用されていましたし。
61系32系で青が少数派(32系は皆無?)なのは、そのためでしょう。
またロから格下げのハが茶色なのも、そのためでは? と思います。
勿論、例外はあって、前にも書きましたが水ミトの61系に青が存在しています。
これはおそらく、全検が大宮だったことに起因するのではと思います。

>昭和50〜55年頃の夜行急行に未改装のニス塗り車が入ることもあったのでしょうか?

はい。ありました。ニス塗り車でも外装が青色の車両もありますし。
一つ重要なのは、ニス塗りでも近代化改造車と言える車両が存在していると言うことです。
私が見たことのあるオハ47ですが、外見は青、サッシは木枠、照明は蛍光灯、車内はニス塗りと言う車両です。

ちなみに、多忙期の臨時急行には、客車区寄せ集めの雑多な編成が組まれたようですし、
茶色多数の臨時十和田(昭和50年代)という写真を見せてもらったこともありますので、
35系42系43系10系なら何でも可というのが当時の感じだったのではないでしょうか?
<当時は臨時が何本も出たり、上野では長蛇の列だったり、隔世の感がありますね。

それとスハフ42 2245の件有り難うございます。
もしかしたら、板張り替えなのか、ニスを落として塗ったとか。

>ザラザラ系の感触で、全体的に薄緑

気動車用なのかな?

ちなみに、東日本のスハフ42 2234も変な色してます。
これは、板の色を脱色してしまったような感じ。



投稿者 スハ32
投稿日 09月20日(月)17時47分04秒
タイトル Re:旧客の茶塗装
ご無沙汰してます。
50年代当時は、東京近郊の旧型国電もまだ健在でした。
青梅、五日市、横浜、南部線など全ての路線で茶色塗装でした。
それを考えると客車だけでもなかった気がします。
同じ旧型国電でも70,80系は、湘南色、スカ色、上越色とちゃんと塗り分けされてましたね。

地方では、非電化区間などでは、油汚れなどの問題もあるので、メンテナンス面で実は茶色の方が都合が良かったそうです。
茶色の上から青を塗ると見た目も余り良くなかったと言う事情も聞いた事があります。
最後まで茶色が残ったのも、元の塗装に上塗りするのが面倒・・・という面もあったのではないでしょうか?
東京に入ってくる客車で、東北系は、茶色が混じることが多かったですが、
高崎の車は、ニス塗りのオハ35を含めて、50年当時すでに全て青塗装でしたね。
(これも大宮持ちです・・。)

そう言えば、荷物車は、一部を除いて茶色でしたね。
私の記憶では、マニの青色も極少数存在してたはずです。
10系の郵便車は青でした。郵便、荷物でも青と茶が混在してますね。

茶色塗装が残ったのも面白いですが、末期まで旧型客車が東京発の急行に残ったのも?ですね。

12系は、既に大阪万博(昭和45)の時に登場した割には最初の10年ほどは、波動輸送専用の様に使われ、
定期列車に殆ど使われませんでした。
それゆえに12系が実際に急行列車で活躍したのは、思ったより短かった気がします。
八甲田や津軽も数年で14系化されています。
旧型客車末期まで夜行急行に12系でなく、旧型客車が使われたのは、どんな理由からでしょうかねぇ?
12系の配管は、旧型客車(10系寝台など)との混結を考えて作られていたので、
暖房も含めて問題無かったのでハード面の理由では無いと思いますが・・・。

その12系もオリジナルは、残り少なくなってきてしまいました。

スハ32

PS.32系では、唯一オハフ35(TR11に振り替え)が近代化されて青色にされていますが、短命だったようです。
  元々戦前の優等列車用で、設備も窓以外は、オハ35とほぼ同じでしたが、小窓ゆえに車内が暗くなりるため、
  戦後は、スハ43の登場でオハネ17への改造、台枠、台車などの部品調達、普通列車と寒冷地向けにされました。
  それゆえに、近代化せずに残ったのかもしれません。



倶楽部メモ(21) 平成11年 9月21日〜 9月24日



投稿者 大和路環状線
投稿日 09月21日(火)23時28分50秒
タイトル 旧客の茶塗装にお礼(その2)
水ミトさん、再度のフォロー誠にありがとうございます。
スハ32さん、こんにちは。興味深い回答を頂き、嬉しく思っております。(^^)

●水ミトさん
>急行用は一応、35系42系43系10系だと思います。
>35系は一般型末期の越前等で運用されていましたし。
なるほど。これで少しは謎が解けていきそうです。(笑)
でもオハ35(正真正銘の直角シート)の夜行急行って、利用者からすれば不満タラタラだったんじゃないでしょうか。(^^;

>全検が大宮だったことに起因するのではと思います。
青色61形の件は以前述べて下さいましたが、こういう点は見落しがちですね。
「工場」によって一つの傾向が存在するというのは面白いと思います。

>茶色多数の臨時十和田(昭和50年代)という写真を見せてもらったこともありますので、
>35系42系43系10系なら何でも可というのが当時の感じだったのではないでしょうか
それが当時の事情だったんですね。今からでは全く想像できません。
ニス塗りの急行列車、当時の利用者はどう感じていたのでしょう。

●スハ32さん
>50年代当時は、東京近郊の旧型国電もまだ健在でした。青梅、五日市、横浜、南部線など全ての路線で茶色塗装でした。
>それを考えると客車だけでもなかった気がします。
なるほど、関東では結構遅くまで旧塗装の国電が残っていたんですね。
当時の大阪駅では、なんせ環状線の103系や新快速の117系などに隣合う形で、
茶色い客車(福知山線)が停まっていたりしたもんで・・・。(^^;;

>非電化区間などでは、油汚れなどの問題もあるので、メンテナンス面で実は茶色の方が都合が良かったそうです。
これは大きいでしょうね。改装車との区別を図ることもできますし、二重の好都合だったというわけでしょうか。

>茶色の上から青を塗ると見た目も余り良くなかったと言う事情も聞いた事があります。
>最後まで茶色が残ったのも、元の塗装に上塗りするのが面倒・・・という面もあったのではないでしょうか?
エッ?でも、ほとんどの一般型客車は元々茶色で、その上に青色が塗られたわけですよね。
塗り替えの際に「塗料さえあれば青色にできるのでは?」と考える発想って、短絡的でしょうか?(^^;;

>マニの青色も極少数存在してたはずです。
新聞輸送用のマニ37が唯一の例外でしたっけ。
ブルトレに連結するための青色でしょうか。

>末期まで旧型客車が東京発の急行に残ったのも?ですね。
東北・北海道方面は遅く(1982年)まで残っていましたね。
12系は波動輸送の任務に手一杯で、客車急行の多い上野口の定期便に回す余裕がなかったのでしょうか?
14系は14系で特急車の面目を保っていた時代でしたし・・・。

一方で、大阪発九州行きの「雲仙」「西海」「阿蘇」「くにさき」などは、昭和50年の時点で14系座席車に置き換えられていますね。
こちらは新幹線の穴埋めの役割もあるため、特別に優遇されていたのかも知れませんね。

>32系では、唯一オハフ35(TR11に振り替え)が近代化されて青色にされていますが、短命だったようです。
オハフ35というのがありましたか。本当に雑多ですね。
塗色どころか、車両形式の全貌をつかむだけでも至難の業と言えそうです。(^^;;



投稿者 客貨区
投稿日 09月22日(水)02時16分36秒
タイトル 四国の旧客
このページを見て客車好きの虫が騒いだので投稿させていただきます。

車体や車内のお話が出ておりますが、思い出話をさせて下さい。

まず車体の塗装ですが、四国では43,44系ともに全て青色
35系はオハ35は青のみで、オハフ33は、半々くらい。
41,61系は全て茶色でした。

私の知っている限りでは、ニス塗りは全て茶色だったようです。
唯一、オハフ61−20は、ニス塗りの車内をライトグレー一色で塗りたくった変な車両でした。

四国では近代化改造はきっちり青で塗り分けていたと思います。

ただ、旧客末期頃の記憶とデータしか残っていないので調査漏れがあったら勘弁してください。



投稿者 スハ32
投稿日 09月23日(木)15時29分00秒
タイトル 旧客時代の夜行&急行
>>茶色多数の臨時十和田(昭和50年代)という写真を見せてもらったこともありますので、
>>35系42系43系10系なら何でも可というのが当時の感じだったのではないでしょうか
> それが当時の事情だったんですね。今からでは全く想像できません。
> ニス塗りの急行列車、当時の利用者はどう感じていたのでしょう。
急行ではないですが、夜行の山陰に乗ったとき茶色ニス塗りのスハ42に当たったことがあります。
他は、青のスハ43、オハ47だったと思いますが、意外とこの車両に人気が集まってました。
スハ42は、台車がウィングバネ初期のTR40で乗り心地は良いのですが、座席は、オハ35と同じです。
夜行の場合、ニス塗りの車両の方が、暗くて寝やすいと言う人もいました。
また一般客でも既に茶色の客車は、珍しくなってきていたので、色々と鉄道ファンに質問してましたね。
当時夜の上野駅地上ホームは、東北夜行急行が絶えず発着してました。
東北夜行急行に乗る人は、旅行者以外はベテランの人が多く、ホームでの列車待ちの風景は独特のものがありました。
確かに茶色の客車が混じる事もありましたが、当時出稼ぎで来ている人などには、故郷へ向かう列車が来た・・
という印象をうけていたのではないでしょうか?

当時を振り返ると、座席の10系は、意外と早くに急行から撤退してました。
理由は、隙間風だったと思います。
皮肉にも軽量化のせいで、各所の痛みが早く、置換えたはずの43系に起きかえられる結果になったようです。
10系は、山陰地方で最後まで残り、首都圏や東北地方からは、早くに消えています。
八甲田も旧型客車末期には、10系は全て43系に戻されました。
旧型客車急行末期の写真に寝台車以外の10系の姿は、見る事が無かったと思います。

ニス塗りではなかったのですが、中央夜行、及び急行で旧型客車が遅くまで残っていました。
これは、山男の間では、「旧型客車の方が寝やすい」というのが一般的だったからそうです。
電車化が決まったときには、大規模な反対運動(しかも鉄道ファンではない登山家から)が起きて、
東京では大きく新聞報道までされました。
登山家の間では、旧型客車の山岳夜行は長い間愛されて利用されていました。
新聞記事の中では、山へ行く独特の雰囲気が無くなってしまったと言う声が大きかったと報じられてたようです。
最終列車は、垂れ幕まで登場したそうです。
固い座席といっても、12系165系も大差は無いですし、慣れた人は殆ど床で寝てました。
(私も夜行では好んで床を選ぶことが多かったです。)
エンジンもモーターも無い客車は静かで寝やすい、という意見がおおかったそうです。
その後臨時でしばらく残り、最後は品川客車区の43系客車が中心だったと思います。
(実家が山手線沿線だったので、良く回送列車を見ました。)
急行列車で印象に残っているのは、C57(だったと思います。)の引く急行ちくまときそです。
どちらもスハ43に乗りました。SLの引く客車急行に乗った最後の機会だったと思います。
C57の汽笛と旧型客車独特のジョイント音は、今となっては2度と味わうことの出来ない贅沢だったのかもしれないですね。
昭和40年代の後半、SL末期の頃(中央西線SL引退間近)だったと思います。
まだ小学校低学年でした。

変わったところでは、冬のスキー臨時客車急行ですね。寄せ集めでしたが、43系が中心でした。
牽引は、EF58でした。スキー急行は混雑が激しかったのですが、
旧型客車は、デッキが手動なので、運転停車の駅からもスキーヤーが乗り降りしてました。
当時のスキー臨時急行は、115系まで借り出されてました。
急行指定券払って115系は、さすがに遠慮したかったですね。

                   スハ32



投稿者 大和路環状線
投稿日 09月24日(金)05時03分47秒
タイトル 旧客の茶塗装にお礼(その3)&諸々
懐かしネタ花盛りですね。
大昔(?)の旧型客車の香りが一気に蘇り、酔ってしまっている大和路環状線です。
長文になってしまいましたが、どうかお許しを。m(..)m

●客貨車区さん
>四国では43,44系ともに全て青色35系はオハ35は青のみで、オハフ33は、半々くらい。
>41,61系は全て茶色でした。
44系というのが何とも言えませんね。
末期の四国オハ35は、緩急車(オハフ33)に比べると極端に在籍数が少なかったようなので、たまたま青色だけになったわけでしょうか。

>知っている限りでは、ニス塗りは全て茶色だったようです。
>唯一、オハフ61−20は、ニス塗りの車内をライトグレー一色で塗りたくった変な車両でした。
そういうオハフ61も初耳です。
勿論背ずりモケットは無しだと思いますが、ちょっと違和感が・・・(^^;
(やはり「断片情報」が貴重ですね。ありがとうございます。)

>四国では近代化改造はきっちり青で塗り分けていたと思います。
そういう地域も確かにあるというのは興味深く感じております。

●スハ32さん
>夜行の山陰に乗ったとき茶色ニス塗りのスハ42
確か出雲区(米イモ)の客車でしたね。
残念ながら私は乗れませんでしたが、深夜の餘部鉄橋などは100%「999号」の世界でしょうか?

>夜行の場合、ニス塗りの車両の方が、暗くて寝やすいと言う人もいました。
なるほど、そういう好都合もあるんですね。
「暗い」という点では、私が函館本線41レ(昭和60年)で乗ったスハフ42 2245は
白熱灯の上、使用灯半減でしたのでぐっすり熟睡できたと記憶しています。
(長万部発車時の引出しショックで目を覚ましたくらいです。)

>当時出稼ぎで来ている人などには、故郷へ向かう列車が来た・・という印象をうけていたのではないでしょうか?
現在から予測する以上に、そういった面があったのでしょうか。
旧客時代の「津軽」や「八甲田」に並々ならね思いを持っている方って、おそらく大勢いらっしゃるんでしょうね。

>皮肉にも軽量化のせいで、各所の痛みが早く、置換えたはずの43系に起きかえられる結果になったようです。
10系って外観はイケるんですが、車内がなんとなく安っぽいですね。
TR-50台車の走りって、いかがなもんでしょう。
私も43系の方が出来の良い車両のように感じます。(重いですが・・・)

>旧型客車の山岳夜行
利用者にとって何が本当に快適なのかを考えさせられるお話です。
夜行列車は私も客車が最適だと思いますが、年々夜行列車の存在基盤が崩れつつあるようなので、
やはり昼間主体の車両体制(EC・DC化)は仕方ないのでしょうね。
私もよく115系山岳夜行の床で寝ましたが、モーターや3ドア開閉の音が気になりますので、お話は実感としてよく伝わってきます。

>デッキが手動なので、運転停車の駅からもスキーヤーが乗り降りしてました。
それって、ありですか?(笑)

●水ミトさん
>大阪−九州急行とかは、10系多かったですよね。
新幹線博多開業(昭和50年)までは10系の天下でしたね。
先日も書きましたが、その後一気に14系へグレードアップです。

●たけPさん
>サヨナラ乗車組の想いに、力走で応えてくれ、自分にとって今迄で一番思い出に残る夜行列車の旅となりました。
さすがDD51の走りは違いますね。
優等列車と思えないゆったりとした、それでいて力強い「だいせん」の走りが私も大好きです。

●ほくほくさん
>上野〜仙台の普通客車列車
水ミトさんの仰る通り、1982年までありましたね。
同時期の上野口では高崎行2321レというのも残っていたそうですが・・・。
去年発刊された『懐かしの国鉄列車PARTI・1980〜83』(鉄道ジャーナル別冊)なんてどうでしょう。
上野発仙台行客車列車(常磐線)の追跡ルポが載っています。
私もそれを読み、客車10両に郵便車が付く威容、大都会を走る姿に圧倒されました。
すごいの一言。(他に「鳥海」(旧客急行)や「津軽」「おが」などの客車追跡も載っています。)

>その列車は茶色で出入口のドアなし(爆笑)
確かに全部「自由ドア」なので、開いたまま走っていましたけど。(^^;



倶楽部メモ(22) 平成11年 9月24日〜 9月27日



投稿者 客貨区
投稿日 09月25日(土)00時51分03秒
タイトル 旧客ばなし2
大和路環状線さま
ご返答ありがとうございます。
ここを見てると懐かしさのあまり涙が出そうです。

近代化改造ですが、誠文堂新光社・昭和40年発行の「客車・貨車ガイドブック」によると昭和34,35年にスハ42が皮切りで、
38年からスハ43,45,オハ35,46,47,スハフ42,44、オハフ33,45についても近代化を進めているとなっており、その内容は、

昭和50年度以降も使用する2等車約5000両中2000両程度を整備し、車内を明るい色に塗り替え、照明を蛍光灯にし、
各窓下に小型テーブルと灰皿を取り付け、外部色はブルーにするとありました。
いまさらとは思いますが、改造工事初期の頃の本なので参考までと思い・・。

61−20ですが、一番乗りたくないオハフ61と言う贅沢な?車両でした。
四国では同じ茶色でもオハフ33より61の方が扇風機がよく整備されてました。

スハフ43が大井川に行く直前、多度津ではオハフ61と2両ずつ交互に留置してあり客車好きにはたまらない光景でした。

実は貧乏だったので四国以外の旧客はほとんど乗ったことがありませんので四国話ばかりで恐縮です。
長くなりましたので今回はここで失礼します。



投稿者 水ミト
投稿日 09月25日(土)03時22分58秒
タイトル 一般型客車の塗装変更 等々
こんにちは。

手元に、1964-12の雑誌(ファン?)のコピーがありまして、一般型客車の塗装変更の話題が触れられていました。

客車塗装変更 青15号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1等寝台車 オロネ10 マロネ41
1・2寝台車 オロハネ10
2等寝台車 (特急型をのぞく全形式)ナハネ10 ナハネ11 オハネ17 ナハネフ10 ナハネフ11 スハネ30 スハネフ30
1等車 ナロ10 スロ50 スロ51 スロ52 スロ54 スロ60
食堂車 オシ16 オシ17 マシ35
2等車 ナハ11 オハ36 スハ40 スハ44 ナハフ11 スハフ43
近代化改造施工車
1等寝台車 マロネ40
2等車 ナハ10 ナハフ10 オハ35 オハフ33 スハ42 スハ43 スハ45 オハ46 オハ47 スハフ42 スハフ44 オハフ45
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
と、いうものです。オハフ46が書いていませんが、この変更対象車に入っていたと思われます。
従って基本的に31系・32系・61系・ロ格下車等は塗装変更対象外という事なのでしょう。

客車・貨車ガイドブックのスハ42の件ですが、スハ42の34・35年度の近代化は、
オハ36へ形式変更が伴った「近代化をはかるとともに各部品を軽量化した」ものですね。
この近代化は、「軽量化」が目的の改装なのでは? と自分は思っています。
真相はどうでしょう?
従っていわゆる、38年以降の近代化(車両設備向上)とは、意が異なるのではと思っています。

ところで、雑誌などで度々出てくる「体質改善」とは、「近代化改装」と同意語なのでしょうか?
私の勝手な想像ですが、近代化は「車内サービス設備」の改装。体質改善は「車両」の更新なのかなぁと思います。
<FRPタンク化・発電器交換・窓アルミサッシ化 等

もちろん、例外などは存在するのでしょうが。

ところで、四国といえば、トイレ窓修繕・小型化の時、トイレ部分のウインドヘッダーが、きれいになくなるというのが特徴だったと思います。

では、長々と失礼いたしました。



投稿者 水ミト
投稿日 09月25日(土)03時41分07秒
タイトル 訂正
度々、ご迷惑おかけいたします。

1964-12時点で、オハフ46は存在していませんでした。

またピクトリアルの43系特集によると、38年〜42年にかけての近代化として
「白熱灯の蛍光灯化・内張りのポリエステル化(または塗りつぶし)・テーブル設置・タンツボの撤去」があげられていました。

二等車(ロ)の近代化は、32年〜34年、特急用三等車(スハ44 スハフ43 スハニ35)は35年〜36年に行われています。

ところで、図面を見ているとタンツボというのが目立ちます。
昔の人は車内でもタンを吐いていたのですね。

ということで、度々失礼いたしました。



投稿者 大和路環状線
投稿日 09月26日(日)17時51分46秒
タイトル 旧客の茶塗装(近代化?)にお礼(その4)
皆さんこんにちは。
客貨区さん、水ミトさん、近代化工事施工開始当時の貴重な資料を紹介して頂き、深く感謝しております。m(..)m

●ほくほくさん
>とても興味深い追跡ルポですね!
そう仰って頂くと光栄です。(^^)

●客貨区さん
>昭和50年度以降も使用する2等車約5000両中2000両程度
末期まで残ったのは、この2000両に含まれる車両がほとんどだったのでしょう。

>四国では同じ茶色でもオハフ33より61の方が扇風機がよく整備されてました。
こちらも通説とのズレがあって、興味深く思います。
オハフ61は最後は東北だけに固まっていましたが、そのちょっと前までは各地で見られたのでしょうね。

>四国の便所窓修繕車は、郵便車の明かり窓のような形になって、ヘッダーが無くなったのをよく見かけました。
これって、もしかして窓の上部だけを撤去していませんか?(写真でしか見たことないのですが、面白いですね。)

>スハ40
少し思ったのですが、スハ40は「スハ42→(軽量化)オハ36→(電暖取り付け・重量増)スハ40」という経緯を辿っています。
一方で、他系列の「オハ」は電暖取り付けで重量的にス級化することはなかったんでしょうか?
基本的に「製造番号+2000」の形にしか反映されていないようですが・・・。
面白いのはスハ40にも2000番台が付与されている点です。

●水ミトさん
>従って基本的に31系・32系・61系・ロ格下車等は塗装変更対象外という事なのでしょう。
「急行に使えるやつは一応対象車」と言えそうですね。

>図面を見ているとタンツボというのが目立ちます。
>昔の人は車内でもタンを吐いていたのですね。
今からでは想像できません。
あと「栓抜き」が昭和40年前後の車には当然のように付いていました。
いずれも時代を物語っていそうです。
それから43系三等車ですが、スハ43 151及びスハフ42 80以前の車には座布団下に「引出し式くず物入れ」があったそうで・・・。

>自重の自重って、積載重量も含めるのではないでしょうか?<曖昧モード
>従って、定員重量から荷重に変更になったため、増えるのでは?
おそらくそうなのでしょうね。
先頭に立つ機関車にとっては、後ろに「人間様」が乗っているのか「荷物」が乗っているのかの違いは大きいでしょう。

基本的に全うな荷物車は「マニ」で、他はあまり聞きません。
車体が貨車ベースとなっているパレット積載荷物車スニ40・スニ41がありますが、
独特の車体構造や、車長17m(40形)・18m(41形)ということが関係していそうです。
一方、郵便車はやはり「オユ」「スユ」に収まっていますね。


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