▼管理人様:
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戦後の復員列車として運転された南風崎と東京を結んだ列車は40時間前後
恐らくは立錐の余地も無い程に混み合う中での「耐久レース」状態だった事でしょう。
なぜ、佐世保でなく南風崎かと思えば、佐世保港内に錨泊した引揚船に接続した艀の
上陸先が、南風崎駅に近い浦頭港(何やら大陸的な響きです)だったのですね。一方、
ボート・トレインが接続した上海航路で知られた長崎港は、どうだったのでしょうか。
あるいは、原爆の惨禍で、港湾機能なぞ、到底覚束なかったのか?
徴兵で旧満州に渡った我が祖父は、封鎖前の38度線を列車で越え、釜山からの海路で
舞鶴に上陸したとの事。佐世保と同様、海軍鎮守府が所在した事で、軍備解体施策が
重点的に行われたと推察される一方「岸壁の母」に象徴される引揚船の帰港先という
印象が強いですね(祖父の場合、旧制中学時代に曽祖母が他界しているので、非該当)
という事は、中舞鶴駅(1972年廃止)からも、復員列車が運転されたのでしょうか?
舞鶴港と共に「日本のシンドラー」杉原千畝がリトアニアで「乱発」した通過査証で
一命を永らえたユダヤ人多数の上陸先として知られる敦賀港(上段画像参照)の場合、
米軍による機雷封鎖や空襲の結果、引揚船指定港内示を断らざるを得ない程に損壊が
酷かったそうですね。一昨年、貨物列車が廃止されましたが、港湾機能の増強に伴う
貨物取扱量の推移次第では、復活もあり得るらしく「オフレール・ステーション」の
名目の下、線路施設はその侭の様です(中段画像参照)
上記、浦頭港の所在地は「ハウステンボス」となった様ですね。雰囲気を好感した為、
同公園を複数回、訪れましたが「本国」に出張した時の印象からすると、同公園にも
路面電車があても良かったか、などと思うのでした(下段画像参照)
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