倶楽部メモ(642)
平成23年 2月11日〜 2月13日

南風崎からの引き揚げ列車 ・ 復員列車


投稿者 雑魚
投稿日 2011年 2月11日(金)11時22分35秒
タイトル 引揚列車
▼管理人様:
> 戦後の復員列車として運転された南風崎と東京を結んだ列車は40時間前後

恐らくは立錐の余地も無い程に混み合う中での「耐久レース」状態だった事でしょう。
なぜ、佐世保でなく南風崎かと思えば、佐世保港内に錨泊した引揚船に接続した艀の
上陸先が、南風崎駅に近い浦頭港(何やら大陸的な響きです)だったのですね。一方、
ボート・トレインが接続した上海航路で知られた長崎港は、どうだったのでしょうか。
あるいは、原爆の惨禍で、港湾機能なぞ、到底覚束なかったのか?

徴兵で旧満州に渡った我が祖父は、封鎖前の38度線を列車で越え、釜山からの海路で
舞鶴に上陸したとの事。佐世保と同様、海軍鎮守府が所在した事で、軍備解体施策が
重点的に行われたと推察される一方「岸壁の母」に象徴される引揚船の帰港先という
印象が強いですね(祖父の場合、旧制中学時代に曽祖母が他界しているので、非該当)
という事は、中舞鶴駅(1972年廃止)からも、復員列車が運転されたのでしょうか?

舞鶴港と共に「日本のシンドラー」杉原千畝がリトアニアで「乱発」した通過査証で
一命を永らえたユダヤ人多数の上陸先として知られる敦賀港(上段画像参照)の場合、
米軍による機雷封鎖や空襲の結果、引揚船指定港内示を断らざるを得ない程に損壊が
酷かったそうですね。一昨年、貨物列車が廃止されましたが、港湾機能の増強に伴う
貨物取扱量の推移次第では、復活もあり得るらしく「オフレール・ステーション」の
名目の下、線路施設はその侭の様です(中段画像参照)

上記、浦頭港の所在地は「ハウステンボス」となった様ですね。雰囲気を好感した為、
同公園を複数回、訪れましたが「本国」に出張した時の印象からすると、同公園にも
路面電車があても良かったか、などと思うのでした(下段画像参照)




投稿者 雑魚
投稿日 2011年 2月11日(金)12時57分2秒
タイトル 「撮り鉄」 の狼藉
数日前の報道によると、栃木県内の東北線で「カシオペア」を撮影していた「鉄」に
退去を求め、鉈で威嚇したとして、沿線の住民が逮捕されたとの事。犯行の背景には、
自宅敷地に勝手に駐車するなど「撮り鉄」による度重なる狼藉があった様で、私自身、
やはり「撮り鉄」ではありますが、公安に少し関係する立場としては、かかる狼藉の
取締りが、もう少し強化されないと、何れ、大事に発展するのではないかと案じます。

現場が「矢板市片岡」と報じられており、片岡〜矢板の田園地帯での事かと存じます。
あの辺りですと、私は専ら、日光男体山や高原山との組み合わせを前提に、蒲須坂〜
片岡の荒川橋梁付近で撮るのが定番です(画像参照)

この辺り、並行する国道四号線では、なぜか渋滞が多かったのですが、最近、荒川橋
前後がバイパスに移行して交通量が大幅に減ったと思われ、ロケハンもし易くなった
筈ですが、昨年「北斗星」が EF510の牽引になり、週末快速「フェアーウェイ」が
いつの間にか消えていた事もあり、休日の早朝、わざわざ早起きをして、路面凍結を
気にしながら、往復百ン十km ドライブするだけの意欲が失せております(根性無し)

本日は、この時期、金曜の定番である仙台の国鉄色 583系による「ゲレンデ蔵王」の
回送便が日中撮影可能となる、貴重な休日ゆえ、かかる事件の発生後ではありますが、
当該地は三脚組で賑わっている事でしょう。この天気では背景の山は見えそうもなく、
風景派としては物足りないので、昨夜来の降雪の中「♪犬は喜び、庭駆け回り、俺は
寝床で丸くなる」の世界でありました。




投稿者 ED76109
投稿日 2011年 2月11日(金)16時55分7秒
タイトル 昭和三十年代の「鉄話」
 失礼申し上げます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >当時はまだ長距離鈍行の需要があった訳で、学生や一部商用客は殆ど中、長距離鈍行利用でした

 小生、「鉄」親父から「様々な鉄話」を聞かされております(「乗り鉄」の車中でしたが)。
以前にも記しましたように、昭和20年代後半から昭和33年ころまで、「某商店の集金係」として
全国を「鈍行レ」で走りまわされた経験をしております。
今日は、「鉄」親父から聞かされた思い出話を記憶の片隅から、ご披露いたします。

 1 「鉄」親父の仕事エリアは「西日本」が多く、相手先から「電報」で「売掛金の支払日」の連絡が入れば、
時刻表を繰って「集金日」を返信。そして「鈍行レ」で取りに赴くというものだったようでありました。
ですから、集金のボストンバッグを片手に「九州・中国」へは「111レ」、「関西・中京」へは「131レ」、
そして「静岡・浜松」辺りへは「123レ」が定番だったようです。
何しろ、どこへ行くにも「最寄り駅の田町」から相手方の「最寄り駅」の往復運賃と「僅かな日当」に、
「日帰り」不可の場合は「一泊」分が足される仕組みだったようで、
「夜行鈍行レ」を愛用するようになったのでありました。
準急・急行料金など支給されることはなく、「はと・つばめ」の類は「世界が違う列車だった」とのことで、
全くの無縁な存在だったようです。

 2 「マロネロ38様」が仰ったように、当時はどこに行くにも「鈍行レ」が主力であり、
「長距離運転の鈍行レ」が至るところで走っていたようであります。
ですから、「鉄」名所をほとんどゆっくりと「経験」できたようで、
話を聞いた小生はうらやましいやら妬ましい思いでありました。
特に「鉄」親父の印象に残っているのは、「瀬野八」越えや「奥中山」等での「補機での峠越え」。
特に「瀬野八」は、先頭に「C62」で補機が「C59」という「豪華版編成」も幾度か経験。
一度限りだったようですが、「昼間の八本松」で「京都行(?)のPC急行」の自動解放を見物したこともあるとのこと。
「まあ、何だかんだ言ったって、C62やC59の牽く鈍行に飽きるほど乗ったんだから、贅沢な旅したんだろうなぁ。」
の一言は、小学生だった小生には大変「刺激的な一言」でありました。

 3 「鉄」親父たちは、新婚旅行先に九州を選んだのですが、その理由に時代が感じられました。
と申しますのは「国鉄職員」だった「山」お袋が、「昭和天皇の第5皇女ご夫妻」の九州ご訪問の様子を
「映画ニュース」で一見して、どうしても行ってみたくなったからだとのこと。
しかし「お袋」は、当時大人気だった「東京発20時のPC急行那智のロザ」を確保して南紀へのハネムーン
を計画していたようで、上司に泣きついて改めて「PC雲仙のロザ」の往復を手配してもらい、
旅行後に「仲人」よりも先に2人で「お礼の挨拶」にはせ参じたとのことでした。
「お袋」達の話ですと、昭和30年代当時の「PC那智」は南紀方面が新婚旅行のメッカであったことから、
連日超満員の盛況で大盛況。旅行会社は「那智」のチケット確保に大変苦労していたようであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でございました。



投稿者 きむたお
投稿日 2011年 2月11日(金)21時37分56秒
タイトル 昨日のトワイライト
みなさまこんばんは。
あっという間の春節休暇でした。昨日、小松→浦東の便にて職場に戻りました。

さて、富山から小松は普通列車で移動しましたが、富山駅へ向かう道が朝のラッシュで渋滞していたため、
呉羽駅まで妻に送ってもらいました。
北陸線528M小松行きに乗車予定でしたが、特急列車通過待ちで5分遅れとアナウンス。
魚津発のサンダーでも遅れてるのか、と思っているところへ先行の特急列車通過を注意する放送が流れるました。
しかし、それに続いて聞こえたのはEF81のホイッスル!!!
日本を離れる数時間前に客車列車に会え、すごくうれしい気持ちになりました。

写真はその2月10日のトワイライトエクスプレス、8002レ、約30分延。
EF81 43+第3編成+カニ24 13。
呉羽にて。





投稿者 太田拓也
投稿日 2011年 2月12日(土)07時22分57秒
タイトル 時刻表の編集ミス
管理人様へ

最近アップされました「長時間運行客車列車時刻変遷」はおそらくJTBの復刻版時刻表を
資料にされたのでしょうが、実は「主要駅時刻表」昭和22年6月号の10.11ページ
(東海道・山陽線上り)に間違いがございます。

30ページの長崎・佐世保線を参照いたしますと

8018列車は南風崎発23:31
おそらく編集者が11ページ作成時に304列車の早岐発と勘違いしたのでしょう。
これにより総所要時間はなんと43時間09分に。おそらく日本鉄道史上最長でしょう。
(関門トンネル開業前や石炭事情好転後にこれ以上の長時間は考えられない。)

8012列車は南風崎発15:40
特筆すべきはこの列車が東京を通り過ぎて上野着が6:23
東北出身者の便を図っての事と思われますが、上野発列車との接続はよくないです。

東北線列車の東京乗り入れは戦後さほど珍しくありませんが、
東海道線列車の上野乗り入れはこれが最初で最後ではないでしょうか?
投稿者のホームページ



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 2月12日(土)08時47分8秒
タイトル 南風崎からの引き揚げ列車
反応が遅れましたが、「長時間運行客車列車時刻変遷」はたいへん興味深く拝見しております。

南風崎からの復員引き揚げ列車はいずれも臨時または不定期列車の扱いですが、
時代の状況を考えると頻繁に運転されていたのでしょうね。

このうち8012列車は、太田拓也様のご指摘のように、
時刻表昭和22年6月号の九州内のページを見ると南風崎15:40→上野6:23となっていますが、
山陽・東海道本線のページでは管理人様の書かれた南風崎16:12→東京5:55終着です。
焼け跡の中、人手の確保もままならない編集部で校正作業に追われる部員の苦労がにじみ出ているようです。
終戦の昭和20年8月15日にも日本の鉄道は動き続けていた、というのはよく語られますが、
それに伴って時刻表の発行をはじめとする周辺の産業もまた動いていたわけで、
雑魚様の表現を借りればまさに「襟を正す」心持ちです。

3本の引き揚げ列車のうちこの1本だけが上野まで運転されたのは、
ご指摘の通り東北方面へ帰郷する人の便を図った措置でしょう。
もしかしたらこの8012列車の上野着を受けて、接続する東北方面への臨時列車があったかもしれませんね。
もともと特殊な性格の列車ですから、時刻表に載っていないだけかもしれません。

なお接続時間については、現代の感覚で良し悪しを議論しても意味は無いと思います。
引き揚げ列車を運転するにあたっては、まず当時の未曾有の車両不足の中で如何に効率的な客車や機関車の運用を組むか、
という問題が最優先にあったでしょう。上野の接続をどこまで考える余裕があったか、疑問です。
一方乗客たる引き揚げ者の立場から見れば、一刻も早く故郷の土を踏みたい気持ちもさることながら、
命がけの長い旅の末に辿り着いた「故郷への入り口」上野駅で、
今さら多少の(場合によっては数時間の)接続時間を厭う状況だったでしょうか。
むしろ今のような「○○線は△番線から**時**分の発車です。お乗り換え時間が短くなっておりますのでお急ぎ下さい」
なんてことを、重い荷物を持ち、疲れ切った引き揚げ者に言うわけにはいかないでしょう。

勝手なことを書きましたが、当時の人々の気持ちは、到底私の想像の及ぶところではありません。
それでも出来る限り「当時の状況」を想像して議論するしかないんですけど。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 2月12日(土)09時59分50秒
タイトル 復員列車
もう遠い記憶ですが戦後すぐ2年足らず京都住まいの時に、京都駅で度々見た記憶が
あります。兎に角寄せ集め編成で木造20m3軸車とか、デッキが吹きさらしの多分
元私鉄(山陽鉄道、関西鉄道タイプ?)とか、当時はまだ小学生(当時は国民学校の
名残)から新制中学1年坊主で、本格的な鉄ではありませんでしたので型式までは記憶
にありませんけれど、○○検車区とデッキの近くに書いてあったのを記憶しています。
そう言えば大阪から京都へ行くのに、遅れていた復員列車に乗っても良いとの事で乗車
した客車が、後年写真や片上鉄道の混合列車乗車経験から、明らかに元山陽鉄道の客車
だったのを覚えております。



投稿者 雑魚
投稿日 2011年 2月12日(土)11時16分50秒
タイトル 空襲下の鉄道
▼クモイ103様:
> 重い荷物を持ち、疲れ切った引き揚げ者に言うわけにはいかないでしょう

祖父は多くを語りませんでしたが、乗客一人当たりの荷の多さや、混雑時の乗降には
融通が効かないであろうデッキ構造、半ばアドリブ対応だったしても不思議ではない
ダイヤ編成、延いては、これを逃すと次の発車はいつになるか、もし「積み残し」が
多数発生すれば、更なる混乱が発生するのではないか、といった可能性を考慮すると、
上野駅では、あえて接続時間を長目に想定したと見るべきでしょうか。それでもなお
輸送能力が覚束ない場面も多々あり得た、とは思うのですが。

============================================================================

さて、広島の惨禍の直後、山陽線はかなり早期に運行を再開していた旨、当掲示板で
一瞥した記憶がありますが「東京大空襲」の前後から本格化した全国各地での空襲は、
幹線の運行に、どの様に影響していたのでしょうね?

水戸の場合は、1945年 8月 2日に空襲を受け、軍事用品の生産拠点たる日製の工場と
その輸送手段たる常磐線(特に運行拠点の水戸駅?)が主な攻撃対象とされた様です。
詳細は存じませんが、それ以前に勝田や日立に対して行われた艦砲射撃を勘案すると、
復旧には相応の時間を要したと思われます。また、どの程度の戦略効果があるのかは
判りませんが、水郡線沿線の知人によると、水戸から離れた農村で朝の通勤時間帯に
旅客列車が機銃掃射を受けた事もあったそうです。

戦時下でもどうにか輸送体制を維持し、戦後の占領政策など、政治的な環境が様々に
作用した背景はあるにせよ、1960年代半ばに全く新しい発想の高速鉄道(新幹線)を
実現ならしめた、インフラとしての鉄道の優秀性は、当時の国力を定量的に見る上で
大きな指標たり得ると感じるのでした。



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 2月12日(土)12時06分1秒
タイトル 混乱の中での希望の光「復員列車」
 明日の大雪が気になるところの「ED76109」でございます。

 先達の皆様方

 「南風崎」からの復員列車が話題に上っておりますが、
小生は「東舞鶴」からの当該列車について、少々述べさせて頂きます。


 「舞鶴」では、「東舞鶴」駅の隣接する形で「引上地方援護局」が設置されたことから、
昭和22及び23年度は「京都・東舞鶴」に2本、「上野・東舞鶴」に1本の「引き上げ列車」が設定されました。
乗車人員の関係で、当日の車両数が決定されたとのこと。なお、「京都行」のダイヤは次のとおりであります。

 「8420レ」 東舞鶴11:17→京都14:46 「8424レ」 東舞鶴16:34→京都20:18
 ※ 「上野行」に係るデータは不明。

 同24年度は、上記の3本に加えて「青森・東舞鶴」が設定。
翌25年度には「京都」及び「上野」へ1本ずつの2本の設定へと改訂されております。
(「鉄道史を彩る十五の名場面・昭和を走った列車物語」JTBキャンブックス・浅野明彦著・平成13年編)

  なお、以下にその他の「復員列車」に係るダイヤが記載されております。

 ○東海道・山陽
  「8015レ」 東京14:55 → 大阪 5:26
  「8016レ」 大阪22:58 → 東京13:04 → 上野13:17
  「8019レ」 京都15:57 → 大阪16:52(→ 門司 7:20)
                    ※ 京都・大阪のみ復員・引き揚げ者専用レ
  「8020レ」 門司21:38 → 大阪13:21

 ○北陸
  「8519レ」 大阪21:50 → 富山8:09
  「8512レ」 富山19:20 → 大阪6:00

 ○東北
  「8107レ」 上野19:10 → 青森17:10
  「8108レ」 青森21:40 → 上野17:47

 当時は、「石炭不足」によるウヤも少なかったようでありますが、
「連合軍専用レ」及び「復員・引揚レ」は最優先で運転されたそうであります。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 クモイ103
投稿日 2011年 2月12日(土)17時31分9秒
タイトル 復員列車 上野駅での「接続」
雑魚様>

> 上野駅では、あえて接続時間を長目に想定した

当時の感覚としては(←決まり文句ですね)、乗客にも国鉄にも「とにかく上野まで行けば東北本線が出ている」
くらいの感覚しかなかったのではないでしょうか。

8012列車の多くの乗客は、おそらく大陸の港で日本へ向かう船を何日も?待ち、
日本へ着けばまた列車を何時間も何十時間も待ち、
挙げ句はすし詰めの列車に40時間も揺られて上野駅に降り立ったことでしょう。
そこから故郷へは、まだ何時間も列車に乗らなければならないのです。
ED76109様が引用して下さった各線の運転時刻の関係を見ても、上野駅では「接続」という感じではありませんね。
むしろ、半日やそこらは休憩時間として必要だったような気さえします。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2011年 2月12日(土)18時37分32秒
タイトル 復員列車
昭和21年4月の公報によりますと4・15より当分の間、東海道・山陽で15往復、
東北・裏日本で9往復の毎日運転+必要に応じ運転の2種類の復員輸送用臨時列車を
設定、とあります。
が、実際には敗戦以降8月には既に本土防衛や外地出征待ちの基地待機兵士の帰郷に
復員用臨時列車が運転されたと思しき記録が散見されます。

長時間運転列車番外編としてですが横浜札幌間を30時間前後で結んでいた
ヤンキーリミテッドがありました。
連合軍専用・リミテッド(特急)・客車航送・豪華編成・東京上野直通運転・
東室蘭経由と話題が豊富で他の長時間運転列車とは一味違います。
日本国内で2夜行の特急列車は後にも先にもこれだけではないでしょうか?



投稿者 仙コリ(管理人)
投稿日 2011年 2月12日(土)23時32分44秒
タイトル 復員列車の時刻
本日も仕事だったためレスが遅れました…
復員列車の時刻についてですが、確かに元資料であるJTBの復刻版時刻表には不明な点があるのですよね。
私自身悩みながら掲載してしまいまして、皆様にご迷惑をおかけしました。
複数の資料を再検証してみたのですが、8012列車に関しては上野までの運転で間違いなかったようなので、
南風崎(はえのさき)発の時刻も15:40であるようです。
8018列車の南風崎発の時刻も、上記の間違いもありますので、鹿児島・長崎本線の時刻が掲載されている
ページの23:31発が正しいと思われますので、掲載時刻表を訂正させていただきました。
ただ、この区間を含めて8018列車だけが他の列車と比較して非常にゆっくりと走っているのが謎ですね。
(南風崎−鳥栖間の所要時間を比較しますと、他の列車の所要時間は3時間半程度なのですが、
8018列車だけ約5時間となっています。)



投稿者 ED76109
投稿日 2011年 2月13日(日)09時00分8秒
タイトル ヤンキー・リミテッド
 おはようございます。3連休なのにどこにも出られずフラストレーションのみ溜まる「ED76109」であります。

 ヒゲ無し雷鳥様
 >横浜札幌間を30時間前後で結んでいたヤンキーリミテッド

  先達の皆様方には「釈迦に説法」でありましょうが、ダイヤ及び編成は、以下のようであります。

  「1201レ」 横浜22:00→東京22:30→上野22:53→平3:30→仙台7:08→陸奥市川15:13
→青森17:15/18:30(27便)函館23:00/0:50→東室蘭5:12→千歳7:01→札幌8:00

  「1202レ」札幌19:30→千歳20:35→東室蘭22:45→函館3:30/5:00(22便)青森9:40/11:30
→陸奥市川13:27→仙台20:46→平1:00→上野6:07→東京6:30→横浜7:10

 編成 ←(札幌) スニ32+マニ31(札幌行)+オロ35+オロ35(オロフ33)(青森行)+マイネフ38+マロネ37(札幌行)
+マロネ37(青森行)+マロネ37(函館・札幌)+スシ37(マシ38)(仙台・青森)

   1 連合軍専用・・・昭和20年12月、連合軍は「一般将校」と「軍属」及びその家族が公務や休暇の旅行に利用するために、
「定期特急専用レ」を数区間に渡り、運転することを国鉄に命じました。その1つが「東京・札幌」だったのであります。

  2 客車航送・・・ 「ニ」や「ユ」はともかくも、「一般客車」の輸送も戦前は凡例がありませんでしたが、
合理主義と能率主義の連合軍は「前例なし」という国鉄の一言を一蹴させたようてあります。
当初は「ニ+ニ+ロネ」を「13・14レ(函館・稚内)」に併結して「札幌」まで運転したものでありました。

  3 東京・上野直通運転・・・これは、「東京・佐世保」を結んでいた「ディキシー・リミティド」に接続させるためであり、
「横浜」延長時に開始されました。
当時は「東京・上野」は回送レと鮮魚輸送の「東京市場行貨物レ」が運転されていたのみでした。
当然連合軍は、「合理主義と能率主義」を盾に運転を命令。これをきっかけに「上野・御殿場」、「上野・島田」、
「新橋・高崎」等の「日本人用レ」が運転を開始されております。

 4 東室蘭経由・・・「室蘭本線」はもともと「北海道鉄道」が前身だったことから、戦前には件の運行例はございません。
しかし、当時「米軍」が使用していた「室蘭港」及び「千歳飛行場」が近隣である当該本線の運転を命じたのではと推察されます。

 ※ 「鉄道史を彩る十五の名場面・昭和を走った列車物語」(JTBキャンブックス)

 長々と失礼致しました。
以上、本日再放送される「BS朝日の『点と線』」だけが、連休中のお楽しみである「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2011年 2月13日(日)10時18分4秒
ED76109先生:
>>戦前には件の運行例はございません
室蘭本線経由ですが、函館−東室蘭−札幌のルートの事でしょうか?稚内はありましたね?

確か昭和12年6月まで函館−稚内急行と夜行列車が室蘭本線経由−岩見沢−旭川−稚内
でしたね??以下昭和11年4月号「汽車汽船旅行案内」より:-
急行1+201レ併結函館13.20−東室蘭17.46-稚内6.48(稚泊連絡船連絡)
205レ函館22.40−東室蘭6.07−稚内20.39
202レ+2レ稚内22.15(稚泊連絡船受け)-東室蘭11.46-函館16.23
204レ稚内6.30−東室蘭23.20−函館5.40
(急行は長万部迄本線経由札幌行を併結、24時間制に書き換え)

この時代は稚泊連絡船の運行ローテーション?の関係で上り急行が夏ダイヤ(4月17日から)
だった様です。大泊20.50−稚内4.50
急行204レ稚内6.30−旭川13.46/13.55-岩見沢16.02−東室蘭16.58-(札幌発4レ併結)-函館
23.37
この時刻表は大変見難いので間違っていたら御免なさい。

後年昭和30年代にNHKが稚内急行で大ポカをやったのが印象に残っていますが、
「昭和12年4月に塩谷駅で上り稚内発急行が正面衝突をやりかけた」云々。(連ドラ「旅路」)
本線経由になったのが12年6月からですから、4月にそのトラブルが起こることが無い--。
起こるとすれば札幌発の急行2レですが---。
どうも作者が「鉄道省ダイヤ改正は4月1日」と思い込んでいて居たみたいです。



 
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