倶楽部メモ(573)
平成22年 1月 9日〜 1月15日



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2010年 1月 9日(土)00時04分6秒
タイトル カマ交換2
>雑魚様
長岡駅は上りムーンライトえちご発車後、翌日の下りムーンライトえちご到着まで
橋上自由通路は閉鎖され駅内立ち入りはできなくなりますので、撮影に際しては
駅構外からのみとなるためレンズやアングルを工夫する必要があります。

写真のあかつきは肥前山口での撮影でした。
画面左の本編成のうちの前部長崎編成が発車後、右のカマが転線し後部佐世保編成を
牽引します。おぼろげな記憶ですが早岐佐世保間もこの頃はプッシュプルではなく
EL単機による付け替えでしのいでいたと思います。

フェニックスにつきましては、わずか3カ月での区間変更から見て7月の設定時から
宮崎延長を見越していたのでは、と推察いたします。
大まかにいえば鹿児島本線ではかいもんと、日豊本線では由布とスジを入れ替えて
フェニックスと青島を一本につなげた格好です。

今回はあかつきと共に関西九州間を結んだ彗星のカマ交換写真を添付します。
画像処理に失敗してお見苦しい一枚ですが・・・




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月 9日(土)14時38分26秒
タイトル ゴツい架線柱
▼ヒゲ無し雷鳥様:
> 橋上自由通路は閉鎖され駅内立ち入りはできなくなりますので、

長岡駅東口(世代柄、狭軌仕様の越後交通の電車が発着していたのが懐かしい処)の
南側に「グーグル」空撮映像では駐車場と思しきが見受けられ、皆様、ここで三脚を
構えているのでしょうか。

> 写真のあかつきは肥前山口での撮影でした。

門司や鳥栖も同様ですが、分割はともかく、併合時は何処かで推進が必要になるので、
繁雑な印象ですね。ちなみに、早岐〜佐世保の「プッシュ・プル」は、私の知る限り、
電機牽引では行われなかった様です。

> 今回はあかつきと共に関西九州間を結んだ彗星のカマ交換写真を添付します。

奥に見える黄色い車両から、大分駅と拝察します。水戸駅の様に、EF81とED75の
交換なら判りますが、ED76同士を交換する必然性とは これ如何に? 所属機関区の
縄張りを徹底する必要があったのでしょうか。

==================================================================

御掲出の画像に触発され、所蔵する下り「彗星」大分→延岡の運転室展望のDVDを
改めました。佐賀関半島の付根を山越えする関係上、大分界隈の旅客需要は、手前の
幸崎で一段落しますが、ここから南宮崎まで電化されたのは、1974年の事でした。

その二年前、白新線と共に全区間纏めて電化された羽越線の交流区間で特徴的だった
架線柱の形態(これまた再掲で恐縮ですが、羽越線旧線区間のそれを掲出します)は、
日豊線の津久見以南でも用いられました。1970年の川尻以南を以て、全線電化された
鹿児島線も、八代以南で同様の作風が窺え、大雑把に見るなら、交流区間でこうした
ゴツい碍子を伴う仕様は、70年代以降の標準となった、という印象を受けます。

それより以前に交流電化された、函館本線・東北線・奥羽線(羽前千歳以南)仙山線・
磐越西線・常磐線・水戸線・北陸線・鹿児島線(川尻以北、ただし例外的に八代まで)
日豊線(幸崎以北、ただし例外的に津久見まで)および東海道新幹線は「直流風」の
仕様が見受けられますね(長崎線の佐賀以東も「例外」だったかも)

こうした「ゴツい」架線柱の区間を行く客レにこそ、鉄道旅行の醍醐味を感じる私は、
最近、更に「ゴツい」高圧線にも萌えてしまうのでした(^^)






投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2010年 1月 9日(土)16時51分23秒
タイトル 併結
たびたびすいません。
>雑魚様
長岡では駅南の踏切からの望遠撮影が主流のようです。

彗星は大分所属車同士の交換で、仕業の出区・帰区に由来するものだったと思います。

肥前山口でのさくら併結写真がありました。画面左手が長崎編成、右手が佐世保編成です。
カマ運用の関係で長崎編成を牽いてきたEDは切り離され鳥栖へ回送、佐世保編成が東へ
引き上げ転線の上、長崎編成を併結し門司へ向かいました。
スキャナーがうまく使いこなせず、汚い画像で申し訳ありません。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月 9日(土)17時11分9秒
タイトル 交流架線柱の風景
 3連休中に保護者面談があり、休日出勤の「ED76109」であります。

 ヒゲ無し雷鳥様

 九州ブルトレ牽引の正統派「ED76」の姿が見事であります。「富士」も「彗星」も鬼籍入りして、もう・・・(涙)。
小生の客レ紀行では、旧客同様に「交流20,000V」への憧憬がございました。
日常の「鉄風景」では拝めなかった小学生の頃は、交流機を見るだけで興奮しておりましたが、
今現在「函館本線沿い」に在住しておりますと、無性に「103系」が拝みたい今日この頃であります
(711系も最近は少なくなりました・・・)。

 雑魚様
 >交流電化された(中略)東海道新幹線は「直流風」の仕様

 小生、旧客鈍行の牽引機は「DD51」、「ED75」、「ED76」が大部分でしたので、
「新幹線型の架線柱」は旅情を感じさせてくれる不可欠な「アイテム」の一つであります。
特に日帰りが可能な「雑魚様のホーム」である「常磐線の旧客レ」は、ちょっとした気晴らしには最高でした。
朝1番の「仙台行」で「鹿島」や「日立木」辺りまで「ED75の単線旅」で、カレチさんの「○○○レ、発車」
の無線機の声を聞きながら、「平」から「上野行」に変身する「直通旧客レ」で折り返す「小旅」を年に1・2回程度、
「高校」時代に楽しんでおりました。

 長々と失礼致しました。
以上、今年も「道内フリーパス」の乗り鉄がせいぜいだろうと思う
「大学生2人の子供の父親」である「中年客車鉄ちゃん」でありました。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月10日(日)13時11分8秒
タイトル 肥前山口駅
▼ヒゲ無し雷鳥様:
> 長岡では駅南の踏切からの望遠撮影が主流のようです。

………となると、三脚を構える場所も限られそうですね。ダイヤ改正まで残り二箇月、
昨年の「富士/はやぶさ」の時の様な踏切事故の無い事を祈るばかりです。

> 大分所属車同士の交換で、仕業の出区・帰区に由来するものだったと思います。

その結果、発生する長時間停車も「彗星」需要の広域性を考えれば、然したる問題も
無い訳で、これぞ、速達性に汲々とする昼行便と一線を画した夜行便の醍醐味ですね。

> 肥前山口でのさくら併結写真がありました。

田圃が広がる中、長崎線と佐世保線が少しずつ離れていく肥前山口は、分岐点として
好ましい雰囲気を感じています。以前、何かの誌面で、長崎編成と佐世保編成を同じ
足場から撮ったものを合成した写真が紹介されていましたが、なかなか劇的でしたね。

大半の特急や一部普通が今も分割・併合を行う肥前山口は、ある意味「客レ文化」を
体現する存在ですが、平成改元の頃でしたか「かもめ」「みどり」が完全分離された
事もありましたね。その結果「かもめ」の一部は肥前山口を通過しましたが、これは
同駅を擁する江北町自体が、周辺域において、市街形成が特に顕著という訳ではなく、
分岐点なるがゆえの要衝という事情を反映したものと考えます。

▼ED76 109様:
>「常磐線の旧客レ」は、ちょっとした気晴らしには最高でした。

当時を思い出しつつ「奥久慈レトロ」回送便をひとつ……カマに 難ありですね(^^)

画像から御判りの様に、常磐線では最近、従来の「吊下型」ではない碍子が増えつつ
あります。従来型(下段画像を参照)と比較すると「私鉄風味」すら感じられますが、
考えて見れば、子供の頃、ブルトレの紹介写真に登場する東海道線(湘南地区?)の
架線柱碍子は、当時、横浜・日立界隈の東電の一般電柱でも用いられた「焼売風」の
非吊下型でした。早期に電化された区間ならではの作風ですね。

> 朝1番の「仙台行」で「鹿島」や「日立木」辺りまで「ED75の単線旅」で、

茨城県内では絶対無敵の幹線振りを誇る常磐線にあって、いわき以遠の先細り振りは、
東北への主要経路を栃木県に取られた 我々 水戸勢としては、非常に寂しく感じられ、
私自身、いわき以北を利用するのは、岩沼以遠まで乗り通す時と 決めています(^^)

仙台の大学への進学者が伝統的に多かった出身校におけるその後の推移は、常磐線の
仙台直通優等列車の陣容と、ある意味で相関性をも感じますが、2014年に全通予定の
常磐道において、仙台の街や空港を志向する高速バスが、いわき、あるいは水戸まで
設定されると、仙台発着「スーパーひたち」に、大きな変化があるかも知れませんね。






投稿者 ジャルル
投稿日 2010年 1月11日(月)06時51分24秒
タイトル 肥前山口駅
こんにちは。
雑魚さんの肥前山口駅のお話を読んで、そういえば「みどり」号も肥前山口駅を通過する便があったなー
と思い出していました。
確か昭和61年11月の国鉄最後のダイヤ改正でのことではなかったかと記憶しています。
「オランダ村特急」も肥前山口通過でした。
長崎・佐世保線電化開業のときは、武雄温泉や有田を通過する「みどり」もあったことを懐かしく思い出しました。
客レでいえば「みずほ」号、諫早から佐賀までノンストップという特急らしい特急でしたね。



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2010年 1月11日(月)09時42分51秒
タイトル 鳥栖の朝
>ED76 109様
つたない写真でお恥ずかしい限りです。
優等列車を見るだけでも心躍りますが、それが並ぶと
その迫力に圧倒されます。それが昂じて、優等列車の
並びに魅せられてEC,DC,PCを問わず時刻表と
にらめっこしながら並び写真を撮り貯めしております。

>雑魚様
彗星の大分での長時間停車は、乗客が買い出しに走ったり
前部の電源車に車販のワゴンを積み込んだり、昼寝乗車が
始ったり、と寝台から昼行への衣替えをする節目となって
おりました。

添付画像はあかつき、さくらの佐世保編成牽引機が出区待
の鳥栖駅留置線です。久大線の客レ牽引機も合わせてHM
の3並びですが、特急牽引機のHMはかなり傷んでました。




投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月11日(月)16時00分26秒
タイトル 日豊線
▼ジャルル様:
>「オランダ村特急」も肥前山口通過でした。

485系「有明」と 併結運転を行っていましたね。同じ 485系「雷鳥」と併結していた
週末特急「ゆぅトピア和倉」が、電車に牽引されるトレーラー方式だったのに対して、
こちらは協調運転仕様で、新鮮に感じたものです。この車両、後年、長崎〜佐世保の
特急「シーボルト」で、展望室からの大村湾の眺めを満喫しました。

> 長崎・佐世保線電化開業のときは、武雄温泉や有田を通過する「みどり」もあった

1976年に電化された後も、1982年までは、従前からの気動車急行「出島」「弓張」が
存置されており、その辺りの「棲み分け」策でしょうね。1980年までは、肥前山口で
分割された後の下り「出島」の先頭を、加津佐行の「赤髭」島原鉄道車が務めており、
実に「萌え」な光景でした。

> 諫早から佐賀までノンストップという特急らしい特急でしたね。

当時、当該区間で市制施行していたのが、肥前鹿島界隈(佐賀県鹿島市……ちなみに、
我が茨城の鹿島郡鹿島町が市制施行の際「鹿嶋」表記に改めたのは、こことの混同を
避けた為です)のみでしたから、判り易いと言えば判り易いですね。

▼ヒゲ無し雷鳥様:
> 優等列車の並びに魅せられて

北國新聞の報道によると、金沢での上り「北陸」「能登」発車待ちの並びが目当ての
三脚組が、既に平日で30人、週末で50人程度に達している事から「撮影スポット」の
区画が設定されたそうですね。ダイヤ改正まで残り二箇月。金沢には、私の勤務先の
取引先が複数あるのですが、出張命令でも出ないかな(^^)

> 彗星の大分での長時間停車は(中略)寝台から昼行への衣替えをする節目

成程、そうした意義も確かにありますね。朝を迎えた夜行列車の長時間停車といえば、
東北・北海道の周遊券旅行で、何度も御世話になった「津軽」も、14系座席車のみの
内容ながら、山形・秋田で長時間停車し「新しい一日の始まり」を感じたものでした。

> 添付画像は、あかつき、さくらの佐世保編成牽引機が出区待の鳥栖駅留置線です。

来年に開業予定の九州新幹線の駅は、長崎線上に少しずれるのですね。その意味では
鳥栖駅の要衝性も大きく変わると思われますが、いわゆる「長崎新幹線」開業までは
現行「かもめ」「みどり」が引続き停車する事になるのでしょう。

それにしても、鳥栖市自体は、従来の鉄道に加え、高速道同士が交わる事情もあって、
九州随一の物流拠点に成長しつつありますね。かかる高速道を介したバス便の発達は、
博多駅と天神地区が少し離れている事もあり、日豊線特急が別府・大分で系統分割を
行っている点にも鑑み、特に福岡〜宮崎で、JRを圧倒しつつある様にも見えますね。

もっとも、2000〜03年に「にちりん」の相当数が宮崎県内のみの特急「ひゅうが」に
縮小された頃に比べれば、宗太郎峠を越える特急数は相応に巻き返したと見受けられ、
日豊線の面目躍如と言えるでしょうか。並行して建設中の東九州道は、2013年に全面
開通するそうですが、それ以降の「にちりん」の命運は、幸崎〜延岡、特に宗太郎峠
前後で、どの程度の高速性、速達性を確保できるか、という点にあるのかと感じます。

先頃、JR九州が 485系の置換を発表したのも、その辺りを意識しての事でしょうね。
嗚呼、また昭和が消えて行く………



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月13日(水)10時01分3秒
タイトル 「因縁話」で恐縮です・・・
 おはようございます。18日の授業再開まで開店休業の「ED76109」であります。

 マロネロ38様

 正月の気分も無くなりましたので、「C57128」の因縁話と同様のお話を小生もさせていただければ・・・。

 「D51651」は、晩年を「新見機関区」で過ごした「SL」であります。
「伯備線」の三重連で有名な機関区でしたが、この「D51651」は戦後史の一大事件に絡んだ「機関車」です。
実は、この「SL」は昭和24年7月に発生した「下山事件」で、あの「北千住・綾瀬」間で
「下山定則国鉄総裁(当時)」を轢断した「869レ」を牽引していたのでありました。
 ところがこの「D51651」は、「下山事件」発生前の昭和18年10月26日に、110名が死亡した
「土浦事故」に関係した「貨物列車」を牽引していたのでありました。
やはり「因縁」というものがあるのでしょうか・・・。

 失礼致しました。以上「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2010年 1月13日(水)10時44分14秒
タイトル 因縁話しですか--
ED76109先生:
D51651の件は聞いた事がありました。下山総裁は兵庫県出身でしたが、綾瀬の辺りに事件
の碑がありますね。「みちのく」車窓から写しています。
土浦事故にも関係していたのですか,確かJL123事故で他界した坂本九が旅客列車に乗って
いて衝突事故直前に他の客車に移動して助かったとかの一件では??

因縁かどうか?ですが大阪市電の1564が人身事故が多くて廃車が早まったとか、未電化
時代の西成線安治川口駅の脱線転覆炎上事故がキハ42056だったのもおかしな一致です。

18日授業再開とはインフルエンザですか?ご用心ください。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月14日(木)11時32分20秒
タイトル 三重連
▼ED76 109様:
>「伯備線」の三重連で有名な機関区でしたが、

この三重連編成は、姫路郊外の広畑製鉄所(現新日鉄)に向けた石灰石の輸送列車で、
飾磨港線(播但線)の飾磨駅から、当該製鉄所の専用線に入った様です。飾磨港線は、
宝塚〜福知山〜城崎が電化された1986年11月の改正時に廃止され、その僅か数週間後、
山陽電鉄に試乗する機会がありましたが、密着並行する廃線跡が印象的でした。

なお「ウィキペディア」では、ありし日の飾磨港駅の画像が紹介されており、これは
相当な垂涎モノですね。確か水戸駅で「常備貨車」を何度か見た事がある別府鉄道や、
尼崎港支線など、今にして見れば、もう少し頑張って訪問機会を確保すべきでしたね。

石灰石輸送列車は、近所に採掘事業所を擁する足立駅が始発でした。倉敷側から南線、
伯耆大山側から北線として段階的に敷設された伯備線の全通は1928年の事。最後まで
残った未開通区間は、分水嶺でもある岡山・鳥取県境を挟んだ新見〜生山と思いきや、
意外にも、新見を挟んだ備中川面〜足立だったのですね。

足立駅は1926年の開業で、岡山県域にありながら、これまた意外、当時は「北線」の
南端(終点)でした。また、1928年の全通時から一箇月間、備中川面〜上石見は運行
休止扱いとなっており、どの様な事情に因るのか、興味深いですね。なお、石灰石の
採掘事業所によると、件の三重連列車の運行開始は、1942年だそうです。

> この「D51 651」は戦後史の一大事件に絡んだ「機関車」です。

日立製作所にて製造された様ですね。製造事業所が山口県の笠戸でなければ、良くも
悪くも、常磐線に縁が深い機体という事になりますね。

▼マロネロ38様:
> 衝突事故直前に他の客車に移動して助かったとかの一件では??

疎開先である笠間への移動中に遭遇しており、危うい処で難を逃れたのは笠間稲荷の
加護ゆえとして終生、信仰したそうですね。私の場合、中古車を購入した際、ここで
御祓いを受け、その数日後、軽微な物損事故に遭いました。これも御加護の賜物ゆえ、
重大事故に至らずに済んだ、という事ですかねぇ(^^)



投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月14日(木)11時33分10秒
タイトル 下山事件
 おはようございます。「ED76109」でございます。

 マロネロ38様
 >18日授業再開とはインフルエンザですか

 当地は「厳冬」なる故、「冬季休業」が「25日間」であり、小生の勤務校は「1月18日」が「休み明け」であります。
(その代わりに「夏季休業」も「25日間」。「8月半ばに授業が始まってしまいます・・・)

   >下山総裁は兵庫県出身でしたが、綾瀬の辺りに事件の碑がありますね

 「下山総裁」は「兵庫県三田周辺」のご出身と伺っております。「慰霊碑」は足立区の事件発生現場にございます。
但し、現在では「東武伊勢崎線と常磐線とが高架線で交差する住宅街」となっており、当時の面影は全くの皆無です。
事件発生当時の写真を見ると「一面の田圃や沼」で、「ハエタタキ」や「無人踏切」などの田園風景が広がっております。
実は、「鉄」親父の実家が事件現場まで徒歩15分程度のところであり、
事件当時によく「警察やマスコミ」の方々が聞き込みにやってきた話を、小生幼い頃に聞いたことがよくあります。
「鉄」親父曰く、「下山さんの因縁か、『洞爺丸』やら『参宮線の事故』やらで、総裁はすぐ辞めるな・・・。」

 >確かJL123事故で他界した坂本九が旅客列車に乗っていて(中略)助かった

 御意。小生はあまり詳しくなかったのですが、関係サイト等の記述からは「マロネロ38様」の仰るとおりでありました。
折角助かったというのに「件の航空機事故」で逝去されるとは・・・。
前述ではありませんが、「機関車」も「人間」も運命があるのでしょうか・・・。

 長々と失礼致しました。以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。

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 管理人(仙コリ)様へ

 いつもお世話になっております。少々ナーバスと失笑されるかもしれませんが、「下山事件」のレスを書き込んでいて、
「未解決」かつ「色々と複雑な事案(「三鷹事件」や「松川事件」への波及性など)」であることから、
今後「ノンポリ(死後ですね)の立場」から「下山事件への書き込み」を続けてよいものか、お伺いするところです。
 ご迷惑をおかけしているようで恐縮ですが、ご判断願いたいところであります。

 なお、点線以下は「管理人(仙コリ)様」のご判断で「如何様にも」お取り扱っていただいて結構でございます。

(仙コリ(管理人) )
ED76109様
いつもお世話になっております。
「下山事件」等についてですが、私も文献等で少々読んだだけなのですが、事件があった事は事実であり、
それにかかわった車両という話題ですので、私的には問題ないと考えます。
ただ、これらの事件は当時の複雑な要素がからんでいると思われ、また未解決の事件でもありますので、
あまり事件について深く言及すると、思想的・政治的な発言になってしまう可能性があるとは思いますので、
そうなってしまうと好ましくはないと考えております。
いずれにしても現状の話題の範囲ではまったく問題はないと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。



投稿者 雑魚
投稿日 2010年 1月15日(金)12時48分41秒
タイトル 上下線分離区間
▼ED76 109様:
>「三鷹事件」や「松川事件」への波及性など

この辺の話題は、終戦後の日本を舞台とした「ビリー・バット」と云う最近の漫画で
取り上げられており、愛読者にとっては「古くも新しい話題」ですね。

松川事件は、青森発上野行の列車が、松川〜金谷川の曲線区間の入口付近で発生した
そうですから、金谷川駅を出てすぐ、高架で直進する上り線に対し、下り線が右側に
カーブしつつ別れる辺りが現場でしょうか。

ここは、吾妻連峰を背景とした上り便撮影が御約束ですが(本日は、国鉄色 583系を
充当した スキー客用団臨「ゲレンデ蔵王」が南下予定、撮りに行きたい構図ですね)
松川寄り、美郷地区の住宅街に通じる陸橋から、上下線が大きく離れる金谷川方向を
俯瞰する構図も中々でした。実際に電機の入替があったのか、少なくとも数年前まで
架線が残っていた川俣線跡や、それに並行する事業所の専用線跡(事件当時、背景が
取り沙汰されたのはここでしょうか)など、ネタに事欠かず、同好の知人が近在する
福島大学や県立医科大学に進学したのは、然もありなんでした。

途中から新幹線が上下線の間に割って入る金谷川〜南福島も、望遠一眼を具備した今、
再度、訪ねたい地ですが、東側の丘から吾妻連峰を背景に俯瞰した場合、撮影可能な
下り線を日中通過するここ一番の被写体と云うと………直ちには無さそうです。

現在、国道13号線のバイパスが、南福島駅の西側まで南下していますが、それより先、
どの様に東北線と交差し、どの様に四号線に繋がるか、態様次第では、新たな撮影用
視点を確保出来るのではと、密かに期待しています(^^)この辺りの四号線といえば、
高校時代のスキー合宿で、夜行バスで蔵王に移動する際、下り坂の向うに福島市街の
灯火が見え、旅情が高まったものです。最近ですと夕方以降、東北道を南下する時は、
国見SAに寄り、同様に福島市街方面の「ちょっとした夜景」を楽しんでいます。

こうした上下線の分離区間は、福島県の中通地区における東北線の魅力の一つですが、
阿武隈川流域が、必ずしも一貫した平坦地ではない、という事ですね。我が地元にも、
常磐線友部〜内原の例がありますが、奥羽線白沢〜陣場、羽越線村上〜間島、中央線
落合川〜坂下、東海道線南荒尾(信)〜関ヶ原、北陸線新疋田〜敦賀、日豊線西屋敷〜
立石、鹿児島線の田原坂〜植木など、他所での類似例は、何れも地形に由来しており、
常磐線のそれは、千歳線の沼ノ端〜植苗と同様、例外的なものと言えそうです。




投稿者 ED76109
投稿日 2010年 1月15日(金)21時53分7秒
タイトル 「ノンポリ」の立場から戯言を・・・
 ルーチン・ワーク的に失礼申し上げます。「ED76109」であります。

 管理人(仙コリ)様

 ありがとうございます。「ノンポリ(「死語」でした)」で「戯言」させていただきます。

 雑魚様
 >松川〜金谷川の曲線区間の入口付近で発生

 小生一家が「北斗星6号」で帰省する折、「福島」を発車して「金谷川」を過ぎ、
「北斗星」が「下りの線路」を築堤から見下ろす辺りで「慰霊碑」をよく眺めました。
様々な資料を確認すると、現在でも「ミステリーマニア」が訪問することが多々あるそうで、
「松川駅前の派出所」は「事件現場までのマーカー入りの地図」を用意しているとのことであります。

 >こうした上下線の分離区間

 「雑魚様」が提示された区間以外では、当地の「七飯・大沼」。
「藤城線」経由の下り専用線と、「北海道新幹線」の「新函館」で脚光を浴びている
「渡島大野」から「仁山信号所」を経由する「上下線」のルートがございます。
「藤城線の高架橋」は、多くの先達の皆さま方に「渡道や離道の折のアクセント」として
印象に残るのではありませんでしょうか。

 それでは、いつものように少々「戯言」させていただきます。

 1 小生が「戦後史」で件の事件に興味を抱いたのは、昭和52年の秋に放送された「NHK特集」の
  「戦後史特集」でした。
  この時、事件現場のロケを行ったのは「トホホセ」と「東武日光線」が交差する「栗橋」付近。
  「鉄」仲間と「北千住によく似たところを見つけてきたもんだ」と感心したものでした。
  しかし、さすがに雰囲気は似せられても、「トホホセの架線柱」は「新幹線型のスタイル」で時代考証は・・・
  という感じでありました。
  しかし、今現在「北千住」も「栗橋」も住宅街の真ん中でありましょうから、
  当時の面影の欠片すらないことは言うまでもございませんでしょうね。

 2 事件発生当時、現場を「1201レ」が通過していたことが、様々な憶測を呼びました。
  この「1201レ」は「横浜・札幌」を結んでいた「Yankee Limitied」。
  「連合軍専用の白帯列車」の一つであった「1201レ」は、「横浜22:00〜東京22: 45〜上野23:04」。
  「上野」で「EL」から「SL」へと切り替えて「青森17: 15着」後、一部の客車を「青函航路」で航送。
  そして、当時としては珍しい「室蘭本線経由」で「札幌着8:00(3日目)」というダイヤでありました。
  編成は「ニ」が2両に「イ」2両、「イネ」3両の豪華版。
  そういえば、あの「洞爺丸」が最初に「函館港」を出港しようとした時、「可動橋の停電」に加えて
  「米軍関係者の客車(1202レ)積込指示」が「近藤船長」の苛立ちを誘発して出港を断念させ、
  沈没の遠因となったという話を伺ったことがございます。

 3 件の「D51651」が牽引した「869レ」は、空車ばかりの「トムやトラ」ばかりの
  40両以上の編成でありました。
  しかし、当時は40両編成以上の「貨物列車」は「常磐線」では当然であり、
  「雑魚様」が仰っていた「三河島事故」を起こした「D51364」が牽引した「287レ」も45両編成の重量貨物。
  「田端操車場」を出発して「三河島」で「常磐線」に合流する辺りの勾配がネックとなり、
  一度停止した「貨物レ」は発車するのに難儀したとの話を何かの資料で読んだ記憶がございます。
  そのことが「三河島事故」の遠因にもなったようでありました。
  そういえば、「D51364」は「三河島事故」後に「北オク」に証拠物件として、
  しばらく留置されていたそうでありますね。

 長々と失礼いたしました。以上「中年客車鉄ちゃん」でありました。



 
 
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