▼ED76 109様:
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さすがに「4時前後」では身体がもたないですね…
片道二時間通学の級友は、部活絡みで「05時発、23時着」を永らく実践していました。
勤務先の合弁相手である「ナントカ公司」に出向していた関係上、時々「軟座車」で
轍音を子守唄に、居眠りする機会があったそうです(^^)
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私は80年代、初渡道の際、既述の「キハ40単行」による急行「大雪
1号」で移動した
遠軽にて一泊しています。ホエ7030様が掲出された、山を背に機関区を擁する独特の
雰囲気には、私も多々印象を深めた記憶があります。
件の急行が、遠軽から普通列車扱いで名寄線を興部まで直通する仕様だった事もあり、
遠軽のスイッチ・バックは、石北線の導線が、先ず湧別・紋別への到達ありき、との
発想の産物かと、当時は勘違いしていましたが、そもそも、道央から北見・網走への
主要導線が、まず池北線経由、次いで名寄線経由だった歴史的経緯の産物なのですね。
池北線(網走本線)時代に比べれば改善されたとは云え、名寄経由も相当の迂回路で、
当時、道央から見た北見・網走界隈が「地の果て」と目されたであろう状況は容易に
想像できます。せめて、湧別〜網走は当初から勇網線の経路とすれば良いのに、とも
感じましたが、網走以上に、北見(野付牛)への到達性が重要だった訳ですね。
かかる歴史的な要衝性や、地域随一の人口規模を擁するにもかかわらず(函館発着の
長距離特急「おおとり」にしても、網走を目前にした北見で増解結を行っていました)
自治体人口で半分以下の網走市が支庁所在地である理由が、永らく判らないのですが、
終戦直後、北見を中心とした「北見支庁」案が検討された事があるそうですね。なお、
網走支庁は来年四月「オホーツク総合振興局」に改組される予定との事。
以上「網走」と聞くと「マ○ンガーZ」の作者を連想する雑魚でした(^^) |