▼コスモス様:
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平日休日のダイヤ区分けは実施されていなかったかもしれません。
中・遠距離の旅客が並行新幹線に移行する以前の、東北線や高崎線における、ダイヤ
編成上の融通性を考えると、常磐線での運行当局のスタンスも推して知るべしですね。
常磐線では、その後も「新幹線分離」が無く、それに加え、交直流切替も列車増発の
隘路になり、首都圏志向の宅地開発は、他路線に比べ、かなり後発気味でしたからね。
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RMライブラリー63「茨城交通水浜線」(中川浩一著)にその写真が載っていた
私も拝見しました。以前にも言及しましたが、中川浩一氏は、その「線路に囲まれた
聖地にある学校」に勤務された事もあるらしく、その頃の記録ではないかと思います。
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平(現いわき)まで直流で、交直切替が平以北に設けられたかもしれない
黒磯や村上が、地勢も相まって輸送需要が一段落する「結節点」である事を考えると、
私も同様の意見です。地形を考えると、平坦地が終焉する四ツ倉の辺りでしょうかね。
北陸線の糸魚川〜梶屋敷は、商用電源周波数の境界線を反映した結果でしょうけれど、
地勢や旅客導線を考えるなら、県境の難所・親不知の前後とした方が、判り易い気も
致します。もっとも、区間便の設定状況を見ると、糸魚川は新潟県域ながら、むしろ
富山への帰属性が高いのかも知れませんね。
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ときに「奥久慈」を見捨てることもあったのですね
これらの多層建は一元的なので、アドリブ対応も比較的容易でしょうけれど、仙台〜
盛岡における「くりこま」を核とした「名物多層建」では、どの様な想定だったのか、
あまりに複雑過ぎて、想像すら出来ないですね(^^) |