おなじみ資料屋(謎)のクモイ103です。
所属の略号について、本棚を探ったら、いろいろ出てきました。
# 広島は「中国支社」でしたね。「中部支社」は名古屋地区でした。失礼しました。
◆鉄道公報 号外(昭和34(1959)年6月23日(火曜日))によると、「総裁達第318号」で
「車両の塗色及び標記方式規程」が定められ、その中の「別表第3」に、配属箇所略号として、
「広島鉄道管理局 広」という記載があります。
また、上記規程の制定に伴い、同じ公報の末尾に、工作局からの通報として
「・・・その主な改正点は次の通りである。」という、たいへん親切な解説があって、その中に、
2 客車
(1)車体外部の塗色は、ぶどう色1号をぶどう色2号に改めた。
(2)配属箇所名略号で、青函船舶鉄道管理局の「青」は「函」に、客車の常備駅名略号で
青森の「アホ」は「アオ」、直江津の「ナホ」は「ナオ」、飯田町の「イヒ」は「イイ」、
塩尻の「ホシ」は「シオ」に、暖房車の配置個所略号で飯田町機関区の「イヒ」は「イイ」に改めた。
配属箇所名で建設局及びその略号「建設」を追加し、
広島鉄道管理局の「廣」は「広」に字体を改めた。・・・などの記載があります。
あと、窓下のローマ数字による等級標記を廃止することも明記されているなど、
多岐にわたる分量の多い資料で、とても全部は書ききれましぇん(*_*)。
どうしても見たい方は、交通博物館の図書室へどうぞ(爆)。
◆一方、「国鉄客車配置表(昭和37年10月1日現在)」
(発行 鉄道友の会客貨車気動車グループ 昭和38年6月)では、広島から下関までの一帯は
「中国支社」として「中」の略号が使われています。
短期間に「廣」→「広」→「中」と変化したことになりますが、「中」への変更時期はわかりません。
◆時代は遡り、管理局名ではありませんが、
RP誌71号(1957年6月号)車両の動き(昭和32年4月分)より
○客車常備駅名略号の変更
南稚内 ミナ → ワカ
追分 ヲイ → オイ
小樽 ヲタ → オタ
大湊 ヲミ → オミ
大館 ヲテ → オテ
秋田 アタ → アキ
新庄 シヨ → シン
大宮 ヲヲ → オオ
尾久 ヲク → オク
新鶴見操車場 ツルソ→ ツソ
名古屋 ナゴ → ナコ
南福井 ミフ → フイ
梅田 ウメダ→ ウタ
神戸港 コヘコ→ ココ
宮原操車場 ミハソ→ ミハ
竜華操車場 リユソ→ リウ
紀伊田辺 タナヘ→ タヘ
岡山 ヲカ → オカ
東唐津 ヒカラ→ カラ
吉塚 ヨカ → ヨシ
早岐 ハヤ → ハイ
竹下 タタ → タケ
直方 ナヲ → ノウ
東小倉 ヒコラ→ ヒコ
大分 ヲウ → オイ
川内 セチ → セイ
ただし、同誌68号(1957年3月号)「読者短信」欄に、
「東鉄尾久客車区の略号が1月下旬頃から東ヲクから東オクに書き換えられている」
また、同誌69号(1957年4月号)「読者短信」欄では、
「大宮客貨車区の客車が2月4日から一斉に区略号をヲヲからオオに書きかえられた」
との投稿がありますので、ある期間の幅をもって変更が行われたようです。
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